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歯科X線は野口英世によって日本に紹介された

わが国の歯科X線に関しての記録は、明治三十年三月発行の『歯科医学叢談』第七号(東京歯科大学発刊の歯科学報の前身)に、「Dental Review」(Vol.XI,No.1) 一八九七年からの抄録として湖柳生(こうりせい)(野口英世)が『るよんとげんX光線ヲ応用シテ欠歯ヲ発見セシー例』として紹介したのが恐らく最初のものであろう。

野口英世は明治三十年十一月に順天堂医院の助手を務め、特に「順天堂医事研究会雑誌」の編集、翻訳などを手伝っていた。

この当時、野口清作は会場S・N、湖柳生のペンネームを使用した。清作から英世になったのは明治三十二年頃からである。

また、明治三十年七月、米国に留掌中の原去了氏が「歯科月報」に「X光線及催眠術二就イテ歯科医学トノ関係」と題したX線に関する臨床例を報告している。

日本人で初めて歯科X線撮影を行った歯科医は誰?

明治四十二年四月、第十五回東京歯科医専同窓会総会の席で、当時東大歯科に勤務中の遠藤至六郎博士(後に東歯専教授)が「歯科診療上二於ケルX線、價値ニツイテ」と題してX線の由来から自己の実験した教例のX線写真を供覧し、さらに、応用上の諸注意を述べている。

彼は東京大学の土肥慶蔵博士の指導下に、日本でX線撮影を行いまた発表した最初の歯科医師である。

わが国におけるX線の発展に貢献したドイツ帰りの藤浪剛一

わが国のX縮写真術の体系をみると、明治四十五年、藤浪剛一氏がドイツよりX線学を専門に修得して帰朝してから長足の進歩をもたらした。

同年十一月の「歯科学報」第十七巻十一号に「歯科二於ケルレントゲン学二就キテ」と題してX線撮影技術、診断法について詳細に述べているが、これがレントゲン専門家が歯科界に発表した最初のものである。

藤浪氏は明治三十九年、岡山医専卒業、翌年東大皮膚科教室に入り土肥慶蔵博士に師事し、明治四十年三十歳でウィーン大学に留学、ホルツクネヒト教授に師事し、ラング教授に光線療法を学び、明治四十五年一月帰朝、順天堂医院にX縮部長として勤務、大正九年七月慶應大学医学部の創設とともに初代X線学教授となった。

この藤浪教授に師事した最初の歯科医は、門石長秋氏で、大正二年十二月の「日本歯科医学会誌」に「歯科診断学上二於ケルレンチエン線所見」についてと題して教枚のX縮写真を発表している。また、藤浪博士の教室に、後に歯科医師になった技術員の古沢真平氏がいた。

わが国X線学のルーツは、東大土肥慶蔵博士に藤浪博士と遠藤至六郎博士が師事し、さらに藤浪博士からは門石長秋氏、照内昇氏、古沢真平氏らがX線学を修得した。

特に照内氏は、東京歯科の花沢鼎博士と知り会い、東京歯科に入学し歯科医となり、歯科医でX縮学を専門に研究した最初の人である。

大正七年九月に助教授に昇任、後に東洋歯科医学校(現日本大学歯学部)のX線の教授となった。大正十五年四月には「照内式歯科X線装置ニツイテ並二機械供覧」を第七回日本医学会総会に発表している。

門石長秋氏は、明治四十年東京歯科医学院が専門学校に昇格したとき、神田小川町の顕微鏡学院(遠山椿吉博士)に東京歯科学講習所を開設(夜間)、主催していた。

後に東京中央歯科医学校と改名し校長となった(鈴木勝氏による)。さて、わが国にレントゲンの機械が輸入されたのは明治三十一年、陸軍軍医学校教官芳賀栄治郎氏によってである。

昭和二十六年四月、歯科放射線集談会が創立され、昭和三十五年四月に日本歯科放射線学会と改称され、今日に至っている。  

参考:歯科の歴史おもしろ読本 長谷川 正康 著

 

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