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過去の坂本貴史メッセージ集 NO-5

NO5 NO4 NO3 NO2 NO1 (左が新しいメッセージです)

平成19年10月28日

追想(T)

「昭和史の語べそして7ヶ国語をあやつるアジアの救世主、宰相宮沢喜一先生のご逝去に思う!」

私が、最も尊敬していた、元内閣総理大臣 宮沢喜一先生と、元内閣官房長官(故)伊東正義先生と私との出会い。

まず、伊東正義先生とは、大平首相急逝のため、内閣総理大臣臨時代理者の立場におかれた時のことである。私の大学の親友に会津の斉藤君がいた。その時はもう斉藤君も私も長い長い学生生活を経て、互いに生れ故郷で臨床にあたっていた。会津の斉藤君の友人からお電話を頂き、予約の患者様の治療おえて、すぐに会津に向い川桁の斉藤家に到着した。斉藤家の大きな大きな屋敷が、その昔の名家を彷彿とさせるたたずまいであった。玄関へ入ると斉藤君が私を待っていてくれ、すぐにお父上の仏壇に向いご焼香させて頂き、手を合わせ、こうべを低く垂れた。そして焼香が終ると次の間の大きなお部屋でお茶を頂いている時、ばかに質素な黒のクラウンが静かに止まった。一人の初老に見えた方が喪服を着ていらして、お一人で斉藤家を訪ねられた。そして未亡人となった、お母様に深々とこうべを垂れ、初老の紳士は、一礼をして仏壇になにやらお言葉を遺影に向って、わりと聞きとりやすいお声でした。伊東正義先生の弔辞の内容の要約は次のようなことでした。
「斉藤、遅くなってすまん。濡れ衣をきせられた会津藩のこの伊東でも、総理大臣臨時代理にならせて頂いた。なぜ、一目私の姿を見てくれなかったのか、なぜ私より早く旅立ってしまうのか、それが、悔しい、濡れ衣がもう少しではれようとしているのに、そしてこのぼくの白髪頭をなぜ見ないで、旅に出たのか、私は悔しくて悔しくてならない。」というもので、伊東正義先生と旧制会津中学時代、斉藤君のお父上と同期の桜であった。仏壇からはなれもう一度、深々とお母上にこうべをたれた。そして、私のとなりに座られ、「あなた様は斉藤君とは、どういうご関係ですか?」と言われ、私が、「ご逝去された、斉藤先生のご子息が私の大学時代の同期であります。」と答えたら、伊東先生はやさしい顔をなさって、「どちらからいらしたのですか?」とお聞きになられたので、「大変遅くなりましたが、神奈川県より参りました」とお答えした。そうすると伊東先生は深々とこうべを私にさげられ、「よくぞ、そんな遠方から、斉藤のためにかけつけて下さり、ありがとうございました。」と言われたので、私は、「伊東正義先生こそ、今、大平首相の突然のご逝去により、内閣総理大臣臨時代理者として、毎日多忙極まる日程のなか、大変ご苦労様です。」とお答えした。伊東先生は「私は、旧制会津中の親友なので当然であり、しかもすでに告別式も終った時にかけつけるなど、とても斉藤家に失礼なことをしました。あなた様こそ神奈川県から、斉藤のご子息の同期でありながら本当に遠方からご苦労様でした。」ともう一度、私に対し、慰労のお言葉をおかけになられてしまいました。私は緊張のあまり座っていた座ぶとんから立つことができず、失礼にも伊東先生のお隣りにずっ〜と座っていた。そうすると、村長さん、駐在のおまわりさん、お寺の住職、小学校、中学校の校長先生、旧制会津中学校時代の同期生の方々と次々にこられ、伊東正義先生を中心に大きな輪ができ、お父上の思い出話をそれぞれ、お話になされたことを今も昨日のことのように脳裏に浮かんでくるのである。大平総理は、総理就任が決まった直後、農林省事務次官を努められた、伊東正義衆議院議員に「どうか私の内閣官房長官に何とか、ご就任願えませんか」と懇願なされたが、「私は、浅学非才の身、とうてい大平総理の女房役なぞ、めっそうもございません」再々、就任を固辞されたが、大平総理は、「私は貧しい貧しい香川県に生れた農家の出身で、クリスチャンであります。そして私の政治信条は、「野党が与党に接近して、野党の力が非常に強い時こそ、与党は、正しい政治的選択をするものと考えます。」と伊東先生に言われた。その言葉に胸を打たれ、「会津っぺ」の伊東正義先生は、大平内閣の内閣官房長官に就任されたいきさつがある。大平総理が選挙演説中に倒れ、虎の門病院で、薬石の功なく、急逝された後、自民党の大幹部達が三顧の礼をもって内閣総理大臣に就任することを、伊東正義先生に懇願するも、伊東先生は、「私には、自分の能力と体力を考えると、とても日本国の内閣総理大臣なぞ恐れ多くてできません」とお答えになり固辞しつづけられた。その結果誕生した、鈴木善幸内閣が発足し、鈴木氏に強く要請されて、外相に入閣するものの、外交政策において鈴木総理とことごとく政策が異なるため、鈴木首相に外相辞任願いをたたきつけて、政界を去ってしまった。このことは、あまりにも有名な話であり旧宏池会の有力メンバーなら周知のことだ。その選挙中に倒れ急逝された大平内閣の賛否をかける解散総選挙の結果は、大平人気で、はからずも、自民党が大勝利に終っていて、与野党のバランスが全く崩れていた状態である。外相辞任の理由に、鈴木総理のアメリカ追随主義に対して伊東外相は、大平前総理の東南アジア重視主義を継承していたからといわれている。大平氏も伊東氏もそしてこれから述べる宮沢喜一氏もアメリカ一辺倒主義に強い嫌悪感をいだいており、そろって中国、韓国を含めてアジア諸国との友好こそが、これからの外交の機軸でなくてはならないことは三者とも一致していた。多くの宏池会メンバーも反鈴木善幸派でしめられていて、その結果、鈴木善幸内閣は「何もできず内閣」と評価され短命に終ってしまった経緯がある。今回の主題、宮沢喜一先生の人生を検証してみることにする。
宮澤喜一氏のお父上は広島県福山市の貧しい家に生まれた。しかしお父上は、財産をもなげうって、そして地元の有力者の支持もあり東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。ちなみに中学校、高校は名門私立の武蔵中、武蔵高の卒業生でもある。私立武蔵中学校の入試試験では、受験勉強を好まず、ひたすら、読書にはげんでいたため、合格者81名中の21番目の成績で入学したことがわかっている。東京帝国大学卒業後すぐ、大蔵省に入省し、大蔵官僚のスタートとなる。そして、昭和26年サンフランシスコ講和条約時の吉田首相兼全権大使の随行団の一員に若くして選ばれる。随行員には吉田茂首相を支える池田勇人大蔵大臣がおり、その池田蔵相の大蔵大臣秘書官として、締結の場にいた吉田首相を含めて三人の中の一人であり、まさに、敗戦そして戦後処理の中心人物の一人であり、随行団の先輩には英語の達人白州次郎氏も蔭の人としていた。それが政治家宮澤喜一氏の人生を決定ずける、大きな大舞台となることになる。宮澤喜一氏は、お父上の生まれた広島県福山市に本籍を残し、父上や自分を東京帝大卒まで面倒を見てくれた地元の有力者の恩返しのつもりで本籍地を福山市に残すこと強く意識している。その時は、まさか、国会議員になるとは、夢にも思わず、大蔵官僚として日本国復興に全身でぶつかることを強く決意していた。宮澤喜一氏は、戦後すぐに官僚として第一期フルブライト留学生としてアメリカ合衆国で学ぶことになる。第一期フルブライト留学生の中にお父上が早稲田大学教授の令嬢がおり、渡航する船の中で知り合い、結婚にまで至る、この方が、宮澤喜一氏と人生を一緒に歩むことになる現夫人である。渡航の船の中での英語で政治そして世界観について討論したことを私は、関係者から直接お聞きしたことがある。アメリカから帰国後、大蔵官僚の道をひた走り、あまりの頭脳明晰さに省内でも有名であった。そしてついに官僚から政治家に転換することになったのは大蔵官僚の先輩、池田勇人総理の強い要請にまけてしまったことからはじまり、池田勇人首相から、参議院議員になるよう再々要請された。そして福山の選挙区から立候補し、当選を果し、すぐ池田内閣の初の経済企画庁長官に異例中の異例の早さで入閣する。それから、岸信介ないかくでも経済企画庁長官で入閣し、衆議院議員となり、佐藤栄作内閣の大蔵大臣を努め、田中角栄内閣の外務大臣、中曽根内閣の大蔵大臣、福田内閣の外務大臣を務め、自民党の総務会長を務め、竹下内閣の外務大臣そしてついに、宮沢喜一氏は当時の若き幹事長小澤一郎氏の強い要請でついに宮沢喜一氏が内閣総理大臣に就任し、その外交の専門家がれつ腕をふるっている最中に、自民党の有力者が次々とリクルート事件で、東京地検特捜部の捜査を受ける。自民党総裁として苦しい立場におかれ、野党から提出された宮澤内閣不信任案が賛成多数で可決し解散総選挙を選択せず、内閣総辞職の道をあえて選ぶ。その後、細川内閣の連立与党体制に入る。それから政界が混迷を深め、その仕掛け人は、いつも小澤一郎氏であった。政界が混乱することを警戒し、国民は、安定政権をつくりたい自民党に加担し、森喜朗内閣がいくつかの内閣を経て、誕生することになる。その時、信じられないことが宮沢喜一氏にふりかかってくる。森喜朗首相から、副総理兼初代財務大臣を強く要請される。「この老体が日本国のお役に信に立つと総理がお考えならば、最後の仕事として老体にムチを打って、お引き受けいたしましょう。」と言って、憲政史上二人目となる、総理大臣経験者は、一人目は、高橋是清首相が総理をおりた後に犬養毅内閣の大蔵大臣になって日本の金融危機を救ったという事実があった。それから世界各国首脳達から、「昭和の高橋是清」というニックネームで呼ばれることになる。

宮澤喜一元首相の重要な役割した事項

1. 昭和26年9月
サンフランシスコ講和条約締結
ここでアメリカ合衆国を中心とするGHQ(駐留軍)の占領から脱出し、いわゆる占領状態から日本国は独立国となる
GHQによる占領は6年間続いた。

2. 日米安全保障条約
   日本政府側にも大きなミスがあり鳩山一郎元首相、岸信介元首相の要請
 不完全な条約と認識

3. オイルショック時の危機からの脱出
   オイルショックの危機で省エネルギーを考え日本でエレクトロニクスが高度に発展し、その結果日本は世界のハイテクノロジーの先頭に立つ

4. 湾岸戦争に思った信念
日本が外国でできる限界はPKO協力法まで。
あらゆる事態になろうとも絶対に、武器を外国で自衛隊は使用してはいけない。
カンボジアPKOでは自衛隊派遣を決意
自衛隊は橋をかけたり道路を修復したり、いわゆる国づくりの手伝いに徹すること
カンボジアPKOでの二人の死者について
一人は文民警察官高田晴行警部補もう一人はボランティアの中田厚仁さん
このお二人の死は、自分の責任として一生背負っていかなくてはならないと強く心にいましめる。

5. 日本は決して海外で武力を行使しないこと
   自衛の名の下で、日本が過去、海外で武力を行使して、日本にとって良い結果になったことは一度もないと説く。

6. 日本企業の投資で東南アジアが工業化した
現在東南アジア諸国連合(ASEAN)の国々に莫大な投資を日本企業の私的投資と認識している。

7. 日本、米国、中国との協調
とにかくこれからの中国とのおつき合いのやり方は日本国の存亡にかかると主張している。


宮澤喜一氏からの21世紀の担う若者諸君へのメッセージ

「これから、日本にとって、自由というものがなくならないように、最大限努力して欲しい、若者諸君は自由を当り前のことと思っているでしょうが、戦争に負けた世代の自分にとって一番心配していることです」

このように宮澤喜一氏は昭和史の大変化の節目、節目に蔭の役割を必ずしているし、平和主義者、反戦主義者で、「日本国憲法を守ること特に9条には一筆たりとも入れてはならない」と信念を持ちつつ、天国と旅立たれた方である。私は、2度、関係者のご努力で直接お会いをし、宮澤先生の政治信条、世界観について伺ったことがあります。1回目はホテルオークラで2回目はアメリカ大使館前のビル内の宮澤先生の事務所で

宮澤喜一氏の最後の遺言

「日本国の方々は自分の国は小さい資源のない島国であることを深くご認識して頂き、国民一人一人で世界観をもって、日々、日常生活していただきたい。そしてヨーロッパ型の社会民主主義の新党が自民党の対立軸として、いち早く日本にほしいと思う。」

私と宮澤喜一先生との二人だけの最後の会話
「坂本君、まず日本国民の歯を守って頂きたい、自分の歯はとても大切だよ。
日本国は、世界的にはいまだ、半人前だよ。真の独立国になっていないもの!まだまだアメリカの奴隷で占領が現実的には続いている。そうだなあ?独立国として成熟しつつある国を挙げてみれば、三つある。一つはフランス共和国、二つにはドイツ連邦共和国、三つ目はフィンランド共和国ぼくの頭には、その三国しか今は浮かばないなあ!坂本君、世界観を常に持った日本人になってくれよ!とにかく中曽根さんは、しぶといね!体力もある!私は柔道もやってきたがやはり弱いからだだなあ!」

平成19年6月28日(木)
宮澤喜一先生、気になった英字新聞を2回目にチェックしつつご自宅で、静かな、ご逝去
ご夫人の前で、
享年87才
宮澤喜一先生を尊敬する平和を愛し、愛は尊いと思う一庶民代表
坂本貴史記

合掌
平成19年7月1日(日


「ぼくのクラッシック音楽へ道を開いてくれた師.そして男としての生きざまそして夫婦のあり方のお手本.そして、生きているポケットを、たくさん持っている、心やさしい人間の完成品、天才吉田秀和先生と故バーバラ婦人へのぼくの自分勝手な夕ぐれの追想」


7月1日の日曜日のNHK教育テレビで久しぶりで日本のテレビを見る。
壇ふみさんが司会をする日曜美術館の中で、ある沖縄の陶芸家の作品と、その方の生きざまを視聴者に対してていねいに紹介をなさっていた。その作品は大きな花瓶できれつが大きくはいり、さけてしまうような型なのに妙に安定感、存在感があった。解説をする陶芸家がその花瓶の真裏を見せた瞬間、ぼくは、眼をこらして、前のめりになった。かすかにわれそうな、花瓶をしっかりと細い、細い陶器でつないでいた。この沖縄の陶芸家は、ただ者の方ではないと思い、番組を見つづけると、その亡くなった、陶芸家の令嬢のインタビューが流れ、ご自分の亡父について話されていた。「父は「絶対、私のあとを継いではいけない」と強く、堅く言っていた。しかしご令嬢は、父に内緒で、藝大の陶芸科を受験していた。そして、その合格発表の日、令嬢が眼をしっかりと見すえ合格者が表示してある表示板を見て、「合格した!」と心にきざんだ。そして、ふとうしろをふりかえると、父が立っていた。そして無言でその場をさった。令嬢は、「こっぴどくしかられる!」と思い頭をたれて、その場をさった。そして2〜3日した、ある日父からの、手紙が届いた。その手紙には「大学合格おめでとう。しかし24時間徹夜で、カマを見つめている覚悟と心構えができた時、はじめて陶芸づくりに挑戦をはじめて下さい。私は、うしろでず〜っと見つづけてあげます。とにかくまずは、よかったね。」と書いてあった手紙の実物を令嬢は読んでいるうちに、こみあげる、亡き父親のありがたさとともに、深い思いやり、そして、感謝の気持をおさえることができず、手紙を読む途中で、何回もとまってしまい、眼には涙がうかぶ。涙の一点、一点が彼女の頬をつたわり、そして、それが川のように線となってしまった。いわゆる、点が線と頬の上でなったのを、見ていたぼくは、それこそもらい涙をしたのです。そしてぼくは、心の余韻を持ちつつN響アワーがはじまり、ブルックナーの作曲した数多くの作品で、最も難しく、そしてブルックナーの完成度を表わす、交響曲第8番そして第9番の、ハイライトを紹介するといっていた。私はそのブルックナーの、すみきった音そして自分の心臓の鼓動にも合う曲にききほれているうちに、番組は終っていた。そしてその時の気持を、ベッドの上に必ず置いてあるメモ帳に書きとめ、ベッドに、身をたくし、そのここちよいブルックナーの曲とともに睡眠に入った。ぼくの記憶では、11時頃赤ワインがきいたのか、寝入ったと思うけれど、何か、私は天の敬示をうけるように睡眠からさめ、何とか体が動き、NHKBSのチャンネルを選んでいた。すると、そこに私が最も尊敬し、彼の生き方、彼の話し方、彼の着るもののセンス、そしてするどすぎる音楽評論を書いては、私の胸を打ちつづけた、吉田秀和先生が、その画面におられることに自分のからだが震憾して、ねむけなど全くなく、ず〜と吉田先生を見つづけていた。どうも、フランス在住の若きフランス文学者とご自分の人生、つまり、今までの経験、そしてご自分のやってきたこと、そして音楽というものに対する向き合い方、そして、音楽というものを評論することのむずかしさ、そして、ふだん、ご自分が評論の書くときの心構え、そして向った時、そして評論を書き上げたあとの余韻とその評論文を、読者にわかりやすい文章に、ていねいに校正していく、心の作業を披露していらした。
吉田秀和先生といえば、「忘れろ」といわれても絶対忘れられない大きなでき事があった。1980年代のはじめごろ、当時の世界のピアノ界の巨匠、そして天才、であった、ヴラディミール、ホロヴィッツ氏が、初来日した。ぼくは、家庭教師でためたお金を全部つぎこみ、私にとって高い、高い一枚5万円という入場券をやっと自分の手にした感激を今でも昨日のようにおぼえている。その日が来るのが何と長く感じたかも、おぼえている。そしてその当日がついに来た。ぼくが、はじめて、新宿の伊勢丹で買った、安物のつるしのタキシードを着て、まあ何と自分ににあわないと、姿を鏡にうつし、何度も、何度も、紺の背広に着がえたことか?しかし平塚の駅をはなれる時には、私はあのにあわない、タキシードを着ていた。演奏会場が近づくにつれ、ぼくのアドレナリンの多量分泌を感じ、脈拍、心臓も鼓動、そして顔が紅潮してくるのが良くわかった。そして会場に入ると、何とすでに、吉田秀和先生がバーバラ夫人と吉田先生夫婦用に演奏者が前もってとっておく前から10番目の真ん中にお二人がいらした。先生の白髪は神へも何かを告げるかのように立ち、すぐ吉田先生とわかる。私の演奏会場での心のシンボルであったのだ。そして夢に見ていた、ヴラディミール、ホロヴィッツ氏が登場し、深くぼくたちに頭をたれ、ピアノに向い、「ベートーベンのピアノ、ソナタ」を演奏しはじめていた。つぎ、ぼくは耳をかたむけ目をこらし、においを味わい、会場の雰囲気をぼくの持っている五覚すべてを発揮して、巨匠の曲にききいっていた。そして、演奏が終了した瞬間から聴衆者の拍手がなりやまず、ぼくも、自分の手が、赤く腫れるのを感じつつ、ぼくの手が痛みを憶えても、拍手をつづけていた。もうとっくにホロヴィッツ氏の姿は舞台にはなかった。そして、吉田秀和先生とバーバラ夫人の指定の席に眼をやると、すでに先生はご自宅への帰路につかれていたようだ。「何と早い引き上げだろう!全員が拍手をしているのにもかかわらず」とぼくは、何か妙な感じをおぼえながらそのホロヴィッツのベートーベンの音色を心の中にしまって、平塚への電車にのりこんでいた。そしてきっと、きっと、吉田先生が書いてくれるだろうと、私は、朝日新聞の文芸欄の先生の評論の指定席に毎日毎日、どきどきしながら、評論文が掲載される日を待った。そして4日後だったろうか?25年も、前のことだから、よくおぼえていない。たしか3日か後の4日後だったと思う。ついに吉田秀和先生の巨匠ホロヴィッツの音楽評論を見つけた。そして、私はその朝日新聞を両手でしっかり持ち、先生の評論を読みはじめた。そして、その何行目かおぼえていないが自分の眼を、うたがった。何度も、何度も、読みかえした。ぼくと空間そして時間を伴にした、あの巨匠ホロヴィッツ氏に対し吉田先生は、「彼は、ついに骨とう品となった。しかしひびわれが、いくつも、いくつも目だった。」というこの二行にわたる文章にぼくは、天国から地獄へうちおとされる気がした。あの世界の巨匠ホロヴィッツに対し、「骨とう品、そしてひびわれがいくつも目だつ」という酷評に、ぼくは、いきどおりさえおぼえ「吉田先生はどうしたのか?どうしたのか?」と思い音楽仲間と吉田先生が(ぼくの表現ではあるが)ボロヴィッツと酷評したことにみんなで、長い時間討論したことをまだ憶えている。くやしくて、そして、信じられず涙さえ、浮かんできた。「吉田先生はいったいどうしたのだろう?」と何回も何回も、友人達と考えたが、その場は「ボロヴィッツとなった。」と吉田先生が酷評したという結論を胸に、友人達とぼくはわかれて自宅で、ぼう然としていた。
しかしNHKBS午前2時頃7月2日(月)、吉田秀和先生の音楽家への評論の姿勢をお話になっていた。「ぼくは、一度も、すばらしい演奏家を悪く言った、憶えは絶対にないのです。」と若きフランス文学者に答えておられた。そして、フランス文学者から音楽界、特にクラッシック音楽の関係者のあいだで、大きな、大きな問題になっていたという事実を知る。やはり、そうだったのかと、一瞬、あんどの堵の気持を感じた、直後、テレビの吉田先生から出た言葉は、次のようなものだった。「骨とう品は完成度が高ければ、高くなる程、人間というものはそれをほしがるものですよね。」間違いなく骨とう品にまでのぼりつめた方は、その時点からひびが入って、くることをご自分では理解できないのです。ですから、ぼくは、ホロビィッツ氏を全力で応援したのだけれど、どうも世間では、そうとらえてくれた人は、皆無に近かったのです。「ぼくは、巨匠ホロビィッツ氏を酷評しているという報道にびっくりしたのです。」それを聞いた、私はあの25年前の友人達との討論を思いおこし、何と、57才になった今、先生の音楽評論の根本が全くわかっていない自分に、がくぜんとし、それから一睡もできず、そのことばかり考えて、7月2日(月)の早朝5時を迎えた。「もう起床の時間だ。」と重い腰を何とか、ベッドからおきあがり、歯みがきをしつつ、自分の顔を鏡で見た。ぼくの眼はまっ赤であったけれど、ぼくの眼は死んでいた。
何とか、気合いを入れ、身じたくをしている最中でも、ずっと昨夜の吉田先生の言葉が頭から、はなれず、まるで、タコの吸盤のように、ぼくにくっついてきて、なかなか、はなれては、くれなかった。もう一度、テレビでの吉田秀和先生の一言一言を懸命に思いおこしてみた。その中で先生は、4年前に、ともに人生を静かな足どりで、歩んでくれた、バーバラ夫人が、天に召された時のことを、いつもの、ゆっくりした先生の口調で、述べられていた。「バーバラさんとは、50年の永きあいだ空間そして時間をともにしたし、私の苦しい時も、また楽しい顔をしてくれた方だ。そのバーバラは、今はいない。しかしそれをぼくは絶対に心にうけいれることはできないし、強く拒否しつづけていた。そして、バーバラは私の空気のような方だったので、私は息ぐるしく、息ぐるしく、一度もペンをとることができず、4年間の歳月が流れた。その時、とてもぼくを心配してくれた文芸部の方から、先生の音楽評論の欄は、いつもあけておきます。もしも、もしも、ペンをとれたあかつきには、この白紙の欄へ文字をうめていってみてはいかがでしょうか、私はずっと白紙の欄がうまることをお待ちしています。ばくは何とすばらしい友人達に、恵まれたのでしょう!ぼくなんかにこれ程のことをしてくれるなど、はずかしくて、はずかしくて、益々、ペンをとれなくなったものです。」
画面がインタビュー場面から変わり今日も先生お気に入りのスリッパとお気に入りの椅子に、その長身をよこたえて、めいそうするように、きわめて、そまつなオーディオの機械から出る音をひろっておくられた。若きフランス文学者が、「先生、オーディオの機械には、こだわらないのでしょうか?」という間に、「音は安いオーディオでも、高価なオーディオでも、ぼくにとっては、全く意味のないことです。音楽とは、その方の気はく、そして、次に何の音がするかの、わくわくとする瞬間の連続だとぼくは、思います。」と答えられた。私もその通りだと、同感していた。外国の方と結婚されている娘さんが、先生の鎌倉の自宅を久しぶりにおとずれ、娘と先生があいあい傘でぼくもよく知っている小町通りの肉屋さんにお二人仲よく入り、ソーセージを200g買い求めていた。「買物は楽しいんだ。バーバラさんがいつも、ソーセージとザワークラフトで食卓を楽しくしてくれたんです。」「さあ久しぶりに、今日は君のために腕をふるうことにしようか」とやさしく、娘さんに言うと、にこにこと何も言わず先生と又、小雨ふる小町通りをあいあい傘で自宅へ急ぐ姿を見ていると、何とオシャレで、男として、亡きバーバラを追想する吉田先生には、今、何の不安もないように、見えたものだ。若きフランス文学者と吉田先生が、きょうも先生のきまったお気に入りの散歩道の由比ヶ浜をゆっくりゆっくり、歩いていた。両手を丈の長い白いパンツのポケットに手を入れ、上着は先生お気に入りのライトブルーのカシミヤのセーター、そして首にはチーフのいでたちであった。若きフランス文学者に、「最近のフランスの海岸はどうですか?」と優しく聞くと、その文学者は「今は、私には、あまり目に止まらなくなってしまったんです。」と答えていた。吉田先生は由比ヶ浜の海をやさしいまなざしで少し目線をやり、「ここ、由比ヶ浜も、ずいぶん海が勝ってきて、砂浜がずいぶんやせてきたんだ!」と残念そうに足もとの砂浜にかくれた、貝殻を何とか見つけようとゆっくり、ゆっくりと歩いていた。きっとバーバラ夫人と手をつないで、この由比ヶ浜をご一緒にバーバラさんのために砂浜にうまっている貝殻を一生懸命優しい眼でさがしておられたのだろうと、ぼくは、冥想していた。とにかく、何をとっても、素敵、そしてその知性、そこからでる、するどくそしてやさしい演奏者達の応援の言葉をおしまない、音楽評論家吉田秀和の実像にふれた思いがした、あまりに短い時間であった。若き指揮者の巨匠、ヘルベルト・カラヤン氏がベルリンフィルハーモニーオーケストラを率いて、初来日した時、カラヤンは若く、とにかく、若いエネルギーに満ちていた。「カラヤンは、常に他の天才指揮者達と比べて、あきらかにタクトが早い。カラヤンが披露したのは、ベートーベン交響曲第5番(運命)であった。その演奏について、しっかりとした記憶で、吉田先生はこう述べられていた。「カラヤンはたしかに早い。早いタクトは誰だってできる。しかしカラヤンは全く違った。彼はそのしらべの流れの早さの後に、何か、わくわくとさせるものを常に期待させる指揮者とぼくは思います。」「とにかく音楽は、たのしくなくていかんと思う。」「そして常に聴衆者達にこの次は何なのかというこたえられなければ、その方の存在は意味のないものになると思います。とにかく仕事とは、仕事として選んだものが、楽しくなくてはいけないんだよ。とにかく楽しく、なくてはいけないと思います。その仕事が楽しくて、楽しくやっている時こそ、クラッシックファンの方々も楽しいものだと思います。いやいや苦しい仕事をして、本人も楽しくないし、聴衆も、全くげんめつすることと思うと思うなあ、とにかくぼくもペンをとって名演奏家に対して応援者のちっぽけな一人として応援文を書いている時が、ぼくの生きている時間で最も楽しいことだと思うな」それが、書けなくなったら、ぼくの人生は幕を閉じることに、なるといつも思います。」と言って、また、お気に入りのスリッパとお気に入りの椅子にすわって決して大きいとはいえない小さな畳の室におかれた、やすいオーディオを聞きながら、音をひろっている姿を映して、一日の吉田秀和先生の姿がテレビの画像から消えた。
ぼくは、いつもクラッシックの演奏会へいくと、まず、自分のすわる席の確認より先に、きようは吉田先生とバーバラ婦人が、彼らだけのための指定席についておられるか常に、確認するくせがすっかりついてしまった。吉田ご夫婦がいない演奏会はなにか、不安で、何かものたりない気がしたものだ。あの特徴的な神にも声をかける迫力のある尖塔のように立っている白髪はぼくの人生で絶対にわすれられない記憶になると思う。又、どこかの演奏会で、バーバラ婦人のいない吉田秀和先生を確認したいと、今でも、期待をいだいている自分がここにいる。

2007年7月3日(火)雨模様、自分が働いている夕べの診療室の片隅で!


「読売新聞の記者達とくに編集委員に警告する。」

8月21日(火)の読売新聞の一面を見た瞬間、これほど読売新聞の記者や編集委員、主筆にあきれて一言も言う気がなくなった。
もうこの読売新聞には、ル・モンド紙、そしてタイムズ紙、ニューヨークタイムズ紙、ワシントンポスト紙、フィナンシャルタイムズ紙、ロスアンジェルスタイムズ紙が筆の支え、新聞記者魂など全くない。つまり早く新聞記者をやめて、内務省とかした総務省や日本政府、とりわけ厚労省の手先となることを、勧告する。
とにかく、最近の読売新聞の一面の記事はひどい。平成の大合併に反対した、市町村、つまり全国の自治体の病院つぶしになぜ加担し、メディアという軍隊よりも恐ろしい媒体を使って、国民の心を混乱させるのであろうか?現在、全国の自治体が経営する病院を次々と閉鎖に追い込み、そして市町村合併に反対した市町村に標的をさだめ、徹底的にあらゆる手段を使って自治体を攻撃するそして、市町村を崩壊させ、日本政府つまり、官僚が管理、監査しやすくする、国民のコロニー化(エンクロージャー化)していく日本の政府の戦略を熟知しているくせに、なぜその片棒をかつぐのか、私には全く理解できない。
私は、30年前から、読売新聞社というものを見てきて、「政府よりの新聞」ということは、とっくに知っていた。しかし、今年に入っての記事のひどさには、もう耐えられない。まともな記事が、もう書けないのだから、ロイター通信、AP通信という「勇気のある配信会社」から記事を貴社は買った方が、とてもよい新聞になるはずだ。合併に反対した藤枝市の市立病院がそんな悔しいのか?そして、厚労省が押し進める、あらゆる歯科医療いじめに加担することは、どうにも理解できない。皆、医師や歯科医師はとにかく、患者さんの苦しみ、耐えがたい心の痛みそして、患者が支払う医療費を常に心配しているのに、それを犯罪人にしてしまう、厚労省の行為は、もはや官僚のやることではなく、詐欺師であり、日本国の為政者、独裁者となり下った。日本国憲法は、柱にあるものは、「主権は平民にあること」そして「国家公務員は国民の公僕である」と記してある。公僕とは、平民達つまり我々庶民の召使い人であることを、日本国憲法が施行させた日から裏切り行為をつづけている。なぜ、地方自治体の経営する病院があってはいけないのか?なぜ、市町村は合併しなくてはいけないのか、なぜそれほど天安門事件をおこさせたいのか、政府にも読売新聞社の記者どもに警告したい。こんなことは、全国民はわかっている。だからこそ、地方切り捨て、中央集権化、三位一体などとっくに見抜いているからこそあれだけ参議院で自民党が大敗北をしたのだ。そのことも知っていてあえて、なぜまた、自民党、日本政府をそこまで支援したいのか、又、私には全くわからない、私は、自民党員だし、読売新聞の愛読者ということを、深く心にとめるがよい、そして日本国は大切だし、人の命は、一人ともおろそかにしてはいけないし、医療、年金、介護は、「地球を今どう守るか」と同等に「社会保障の崩壊をどうくい止めるか」がまさに次の衆議院の総選挙で再び問われることは、議員達にわからせないと、もう一つの時代は終ったことに気づかない永田町の連中の心など変えられないのだ。

平成19年8月21日

平成19年08月20日

「敗戦となり終戦が今もつづくそしてアメリカ合衆国の占領時代が続くこの日本という地域で暮す日本人は、皆、それぞれに惑っている。」

 この世とは、私の友人の温かいご助言のとおり「この世はバランスだと思う」ということは、4月27日(金)午前10時30分からの「平塚市、市民大学講座 市民アカデミー講座の平成19年度の合同開講式の記念講演で「人生はすべてバランス」と題し、副題「漢字を温ねれば、齢の大切さが理る」で、私の考えを2時間にわたり平塚市中央公民館大ホールで発信しました。私の生れた時期いわゆる団塊の世代の後期(敗戦から朝鮮戦争が終結し、朝鮮半島がGHQにより38°線で南と北にわけられたその年頃つまり1945年から1952年、生れの人々のことを指します。つまり現在満62才から満55才ぐらいの年令つまりこの団塊の後期に我々が、小学校、中学校、高等学校で受ける教育は極めて、反戦思想が背景にありました。平和のシンボルである日本国憲法の発布日と施行日も社会の教科書にその詳細が何行にもわたり書いてあります。その中で1940年〜1946年まではGHQ(アメリカ合衆国を中心とする連合軍)の駐留軍が実際に日本を占領下に置かれていました。ですから、私は57才、1950年生まれなので占領下の時です。そしてアメリカ合衆国の兵力の大半を1950年に朝鮮半島に向かわせました。その結果、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とに分かれました。一つの朝鮮人という民族が北と南にいまだわかれています。そうなりますと、いまだ大韓民国はアメリカ合衆国の占領下にあることになります。大韓民国の全域に駐韓米軍が何万人も展開しています。日本という国には、現在、アメリカ合衆国の駐日米軍は駐韓米軍より2倍以上の兵力が全域に同じく展開しています。ひどいことになっているのは沖縄という大切な人情が極めて厚く世界遺産である世界中でまれにみる大サンゴ礁群で知られているところです。これは世界中の多くの自然を愛する人々は皆、熟知しています。
さてここでバランス論ですが、たしかに現在、日本国とアメリカ合衆国と二国間でただ一つ締結している条約があります。これが日米安全保障条約です。我、日本が国連主義で行動するならば、矛盾してきます。日米安保は2国間協定であり、国連には安全保障という理念がないので国連の参加国の批准の手続きは必要ありません。ここが大きな矛盾なのです。日本国憲法は日本人自身が日本人のために草稿し1942年に鈴木安蔵を中心に草稿しはじめ 1946年に草稿文が完結した事実があります。ですから日本人がつくった日本人のための又、世界へ恒久平和を発信する世界中で、唯一しかない貴重な人類の世界遺産ですし、今、現在も生きています。
平和を希求し、戦争というものを完全否定した条項、憲法第9条は、さわっては絶対にいけません。これが戦後レジウムを支えてきたはずですが、このところ、どうも憲法に日本国政府が抵抗し、遵守していない例が目にあまります。これを通常国家犯罪といいます。こんな事が続くと、夏目漱石が草枕の冒頭に書き残した「知に働けば角が立つ、情にさおさせば、流される、とかくこの世は住みにくい」ということに私もなってくる。

平成十九年八月十九日(日)
 幼稚園から高校そして57才、58才になった現在でもつづけている六騎会に、いなくてはいけない故倉持邦雄君への毎年彼の命日8月14日前後の六騎会の翌日自分の事務所のかた隅で記す
 
 坂本貴史記

 若すぎた死を迎えてしまった倉持君(享年38才 8月14日逝去)、今年も仏に帰る盆の送り火の日に記した私の未熟な句を記すことにする。

「山々に 友を映せし 盆の炎」

狼星

平成19年8月16日(木)
夜の8時45分に詠む

昨年の追悼の句
平成18年8月14日(倉持君の命日)
藤沢市大庭霊園の墓前にて

「蝉しぐれ 夕立の音も 消しにけり」

狼星

平成19年07月17日

「今夏の参議院通常選挙の投票日も、もう2週に迫ってきた。」

 吉田茂元首相から、検証を試みたが、何せ浅学非才の身、第91代の新首相は、誰が、担うべき人を、とりわけ現衆議院議員から指名、そして期待するには、あまりにも私にとって時間がない。「国民の愚かさの程度を調べれば、政治家の愚かさの程度がわかる」という名言が、あるが、私の最も主張し、理解して頂きたかったことは、日本国にとっての、リーダー論である。とりわけ、現在の日本国は国会議員達と高級官僚といわれる人々が、国を索引する。一国の首相とは夢を自ら持ち、その目標の過程が明確であり、我々庶民とともに、その目標に全力で向っていく姿勢を、我々庶民が実感したとき、我々庶民の権利である投票権を持っていることに、まずに感謝をし、投票することが義務だと呼びたいのである。「サンチョパンザ」を横にしたがえて、「見果てぬ夢」を追いつづける、「ドンキホーテ」探しなのかと思っている。しかし、ラマンチャの男は見果てぬ夢だが現実の政治のリーダーは出発地でも良いし、経由地でも良いし、できるならば、ラマンチャの男が夢に描く世界を、頭にしっかりやきつけ、たゆまぬ努力で、目標に命をかけて、進む決意のある人、それが日本国のリーダーとなるべきだと、2回の検証をふまえ、たどりつきたかったのだ、安倍首相自身が、懸命に何かを探していることは、わかるが、日本の国を唯、象徴的に「美しい日本」という表現だけでは、決してもう国民は納得しない。

平成19年07月17日
坂本貴史

平成19年07月08日

第2号2007年7月8日(日)平塚七夕祭り最終日

「年金問題一つとっても、悪賢い官僚と、その官僚の奴隷となった議員達と
愚かな日本国民の頭の程度がわかる」

検証3

元内閣総理大臣田中角栄の列島改造論

故田中角栄氏が総理大臣に就任した当時は、上下水道のインフラ整備が、先進国と言われた当時、他の先進国と比べかなり、日本国は遅れていた。そこで内閣総理大臣田中角栄氏の国会での所信表明演説は「日本列島改造論」であった。
当時、水洗トイレ、上水道、下水道整備をはじめ、他の先進国より、大きな遅れをとっていた。そこで日本の国家予算の多くを旧、建設省に投じた。建設族の多い、田中派は、自由民主党内の最大派閥となっていた。田中角栄氏の学歴は、現在の小学校卒であった。田中角栄氏は、憲政史上、最も早く、郵政大臣を経験していた。30才代の国務大臣は、皆、国会議員たちの中では、考えられない程の若い郵政大臣であった。元にもどり田中角栄氏は、高級官僚中の官僚、現職であった警察庁長官である後藤田正晴氏を総理大臣の女房役の内閣官房長官にばってきした。この人事は、日本の国民も、政財界にも大きな衝撃を与えた。田中角栄氏は高級官僚中の官僚、徳島生れの後藤田正晴氏に対し、「私は、小学校しかでていないバカ者です。後藤田さんは高級官僚中のトップにいる方です。どうか、高級官僚を私の思いが、かなうように、うまく操縦してほしいのです」と言った。この言葉に大きく胸をうたれた、後藤田正晴氏は、定年前に警察庁長官の職の退任し、田中角栄氏の内閣官房長官に就任することを快諾する。それからの後藤田内閣官房長官の動きの早さ、適格の人事及び予算は、まことにみごとであり、大多数の国民の人々に「かみそり後藤田」と呼ばれることになる。これが有名な「かみそり後藤田」誕生の経偉である。田中角栄氏の日本列島改造は、着々とすすみ、他の、近代先進国にせまっていたが、そこに大国となりつつある、中華人民共和国との問題が天才田中角栄氏の頭を悩ませることになる。彼と後藤田が考えぬいたあげく、アメリカ合衆国に許可得ず「日本国は独立国である。」吉田茂学校の教訓を、踏襲する。当時のアメリカ合衆国ニクソン大統領(共和党)が激しく、激怒した。それはGHQ総司令官が、日本が独立する時、彼が吉田茂に言いわたしたこと。それは「日本がアメリカ合衆国と国交がない国と正式に国交する時、条約を締結する時には、アメリカ合衆国政府に必ず許可を得ること」ということだった。元首相田中角栄氏は、そのことは百も承知していたし、後藤田官房長官もよく承知していた。そして、日本は独立国であると全世界に宣言しようと、二人は互いに誓う、そして全世界に日中国交を樹立し、世界各国に、日本国の独自外交をアピールする賭けにでたのである。しかし激怒したアメリカ合衆国ニクソン大統領を中心にアメリカ政府要人達は、アメリカの植民地であるべき日本が一人立ちしたことに腹わたがにえくりかえっていた。そして、日中国交前にアメリカを正式訪問した際、アメリカの財界人で田中氏と直接あった人間をFBIを使って徹底的に捜査がはじまり、その捜査結果の末、航空産業の担い手であったロッキード社のコーチャン会長の名が捜査当局から名前が上がる。そして、そく下院、上院の公聴会にロッキード社のコーチャン会長を呼びつけ、コーチャン氏に聖書の上に手を置きさせ、何事もうそ、いつわりを言わない旨、宣言させる。読者の各位が、周知のことだが、そこで、元首相田中角栄氏に「防衛庁の戦闘機やそして全日空の旅客機にロッキード社製の戦闘機そして旅客機を購入するように要請し、その手つけ金として日本円で当時5億円を元首相田中角栄氏に渡すことを約束した。」と証言してしまった。これがあの有名なロッキード事件である。こうなると、日本国の東京地検特捜部は内定調査せざるを得なくなり、東京地検特捜部が渡米し、ロッキード社、コーチャン氏をはじめ、ロッキード社の幹部から事情聴取をはじめたが、東京地検特捜部が他国まで、事情聴取することは、日本国ではじめてのことなので、事情聴取に極めて苦労し、長い手続きと長い時間を要した。日本人にとって一番苦手な外国語で、まずつまづき、「大きな要件を物にたとえる政治的風習である、いわゆるアメリカ的俗語をなかなか、理解できずつきとめられず幹部はしだいに苦悩をおぼえる。そしてキーワードの俗語「ピーナッツ」というアメリカ語にやっとたどりつく、そしてさっそく帰国、直ちに衆議院にロッキード事件特別委員会が設置される。田中角栄氏はすでに退任し、後継に、あの有名な椎名悦三郎裁定で三木武吉のご子息、三木武夫氏が内閣総理大臣に就任していた。ロッキード事件当時の田中角栄氏の内閣を支えていた国会議員が次々と委員会に証人として呼ばれ、橋本登美三郎氏、中曽根康弘氏、加藤六月氏、佐藤孝行氏、民間人からは丸紅飯田の大久保利通の子孫大久保取締役専務、日商岩井の副会長海部氏そして全日空の会長をしていた若狭得治氏(ロッキード事件発覚当時、運輸省事務次官)と次から次へと証人として呼ばれ、正しく証言する人間と、うそを言いつづける人間とに分かれるが、民間人達の大多数の証人たちは、すべて正しい証言をして国会議員達は、ことごとく、うそを通しつづける。しかし、全日空の大株主であった、国際興業会長であった小佐野氏だけは、有名な「記憶にございません」という名ぜりふでうその証言をつき通しつづけた、肝っ玉のすわった政商であった。その結果、世界中をおどろかせた前日本国の首相田中角栄氏逮捕という大ニュースが世界中を飛びまわることになった。実に田中角栄氏逮捕まで捜査についやした大きな労力と時間とその費用、そして三木首相の決断力、そして司法の判断をくだすまで、日本にとって空白の時間と金をついやしてしまった。その金額の総計は手つけ金の5億円を大幅にうわまわっていた。



第91代 征夷大将軍相模貴史の平民哀れみの令
  相模城 相模幕府に於いて

我世に、住まいしものたちに告ぐ
文月二十九日は、貴族院をさしかえる日であること周知のことと思うが、撰者の家督をさずかった者どもは、死をもってでも、我世の各藩と村々に置きし、銀箱の中へ深思せし後に奉紙にバテレンから伝わりしペンとやらで貴族院を型ちづくる正義、そして、おきてを守れし、もの一人と塾長一人の名を撰者としてそのものの名を書き、箱の中へ投げ込むことを命ずる。もし該当なき時は、奉紙のまま、何も筆(ひつ)ることなく箱へ投げ込むことを重ねて命ずることとする。銀箱へ投げ込みし、後は撰者の家督をさずかったものの責任とすることをここに平民哀れみの令として下すものとする。
  
平成十九年文月九日付

平成19年07月03日

「ぼくのクラッシック音楽へ道を開いてくれた師.そして男としての生きざまそして夫婦のあり方のお手本.そして、生きているポケットを、たくさん持っている、心やさしい人間の完成品、天才吉田秀和先生と故バーバラ婦人へのぼくの自分勝手な夕ぐれの追想」


7月1日の日曜日のNHK教育テレビで久しぶりで日本のテレビを見る。
壇ふみさんが司会をする日曜美術館の中で、ある沖縄の陶芸家の作品と、その方の生きざまを視聴者に対してていねいに紹介をなさっていた。その作品は大きな花瓶できれつが大きくはいり、さけてしまうような型なのに妙に安定感、存在感があった。解説をする陶芸家がその花瓶の真裏を見せた瞬間、ぼくは、眼をこらして、前のめりになった。かすかにわれそうな、花瓶をしっかりと細い、細い陶器でつないでいた。この沖縄の陶芸家は、ただ者の方ではないと思い、番組を見つづけると、その亡くなった、陶芸家の令嬢のインタビューが流れ、ご自分の亡父について話されていた。「父は「絶対、私のあとを継いではいけない」と強く、堅く言っていた。しかしご令嬢は、父に内緒で、藝大の陶芸科を受験していた。そして、その合格発表の日、令嬢が眼をしっかりと見すえ合格者が表示してある表示板を見て、「合格した!」と心にきざんだ。そして、ふとうしろをふりかえると、父が立っていた。そして無言でその場をさった。令嬢は、「こっぴどくしかられる!」と思い頭をたれて、その場をさった。そして2〜3日した、ある日父からの、手紙が届いた。その手紙には「大学合格おめでとう。しかし24時間徹夜で、カマを見つめている覚悟と心構えができた時、はじめて陶芸づくりに挑戦をはじめて下さい。私は、うしろでず〜っと見つづけてあげます。とにかくまずは、よかったね。」と書いてあった手紙の実物を令嬢は読んでいるうちに、こみあげる、亡き父親のありがたさとともに、深い思いやり、そして、感謝の気持をおさえることができず、手紙を読む途中で、何回もとまってしまい、眼には涙がうかぶ。涙の一点、一点が彼女の頬をつたわり、そして、それが川のように線となってしまった。いわゆる、点が線と頬の上でなったのを、見ていたぼくは、それこそもらい涙をしたのです。そしてぼくは、心の余韻を持ちつつN響アワーがはじまり、ブルックナーの作曲した数多くの作品で、最も難しく、そしてブルックナーの完成度を表わす、交響曲第8番そして第9番の、ハイライトを紹介するといっていた。私はそのブルックナーの、すみきった音そして自分の心臓の鼓動にも合う曲にききほれているうちに、番組は終っていた。そしてその時の気持を、ベッドの上に必ず置いてあるメモ帳に書きとめ、ベッドに、身をたくし、そのここちよいブルックナーの曲とともに睡眠に入った。ぼくの記憶では、11時頃赤ワインがきいたのか、寝入ったと思うけれど、何か、私は天の敬示をうけるように睡眠からさめ、何とか体が動き、NHKBSのチャンネルを選んでいた。すると、そこに私が最も尊敬し、彼の生き方、彼の話し方、彼の着るもののセンス、そしてするどすぎる音楽評論を書いては、私の胸を打ちつづけた、吉田秀和先生が、その画面におられることに自分のからだが震憾して、ねむけなど全くなく、ず〜と吉田先生を見つづけていた。どうも、フランス在住の若きフランス文学者とご自分の人生、つまり、今までの経験、そしてご自分のやってきたこと、そして音楽というものに対する向き合い方、そして、音楽というものを評論することのむずかしさ、そして、ふだん、ご自分が評論の書くときの心構え、そして向った時、そして評論を書き上げたあとの余韻とその評論文を、読者にわかりやすい文章に、ていねいに校正していく、心の作業を披露していらした。
吉田秀和先生といえば、「忘れろ」といわれても絶対忘れられない大きなでき事があった。1980年代のはじめごろ、当時の世界のピアノ界の巨匠、そして天才、であった、ヴラディミール、ホロヴィッツ氏が、初来日した。ぼくは、家庭教師でためたお金を全部つぎこみ、私にとって高い、高い一枚5万円という入場券をやっと自分の手にした感激を今でも昨日のようにおぼえている。その日が来るのが何と長く感じたかも、おぼえている。そしてその当日がついに来た。ぼくが、はじめて、新宿の伊勢丹で買った、安物のつるしのタキシードを着て、まあ何と自分ににあわないと、姿を鏡にうつし、何度も、何度も、紺の背広に着がえたことか?しかし平塚の駅をはなれる時には、私はあのにあわない、タキシードを着ていた。演奏会場が近づくにつれ、ぼくのアドレナリンの多量分泌を感じ、脈拍、心臓も鼓動、そして顔が紅潮してくるのが良くわかった。そして会場に入ると、何とすでに、吉田秀和先生がバーバラ夫人と吉田先生夫婦用に演奏者が前もってとっておく前から10番目の真ん中にお二人がいらした。先生の白髪は神へも何かを告げるかのように立ち、すぐ吉田先生とわかる。私の演奏会場での心のシンボルであったのだ。そして夢に見ていた、ヴラディミール、ホロヴィッツ氏が登場し、深くぼくたちに頭をたれ、ピアノに向い、「ベートーベンのピアノ、ソナタ」を演奏しはじめていた。つぎ、ぼくは耳をかたむけ目をこらし、においを味わい、会場の雰囲気をぼくの持っている五覚すべてを発揮して、巨匠の曲にききいっていた。そして、演奏が終了した瞬間から聴衆者の拍手がなりやまず、ぼくも、自分の手が、赤く腫れるのを感じつつ、ぼくの手が痛みを憶えても、拍手をつづけていた。もうとっくにホロヴィッツ氏の姿は舞台にはなかった。そして、吉田秀和先生とバーバラ夫人の指定の席に眼をやると、すでに先生はご自宅への帰路につかれていたようだ。「何と早い引き上げだろう!全員が拍手をしているのにもかかわらず」とぼくは、何か妙な感じをおぼえながらそのホロヴィッツのベートーベンの音色を心の中にしまって、平塚への電車にのりこんでいた。そしてきっと、きっと、吉田先生が書いてくれるだろうと、私は、朝日新聞の文芸欄の先生の評論の指定席に毎日毎日、どきどきしながら、評論文が掲載される日を待った。そして4日後だったろうか?25年も、前のことだから、よくおぼえていない。たしか3日か後の4日後だったと思う。ついに吉田秀和先生の巨匠ホロヴィッツの音楽評論を見つけた。そして、私はその朝日新聞を両手でしっかり持ち、先生の評論を読みはじめた。そして、その何行目かおぼえていないが自分の眼を、うたがった。何度も、何度も、読みかえした。ぼくと空間そして時間を伴にした、あの巨匠ホロヴィッツ氏に対し吉田先生は、「彼は、ついに骨とう品となった。しかしひびわれが、いくつも、いくつも目だった。」というこの二行にわたる文章にぼくは、天国から地獄へうちおとされる気がした。あの世界の巨匠ホロヴィッツに対し、「骨とう品、そしてひびわれがいくつも目だつ」という酷評に、ぼくは、いきどおりさえおぼえ「吉田先生はどうしたのか?どうしたのか?」と思い音楽仲間と吉田先生が(ぼくの表現ではあるが)ボロヴィッツと酷評したことにみんなで、長い時間討論したことをまだ憶えている。くやしくて、そして、信じられず涙さえ、浮かんできた。「吉田先生はいったいどうしたのだろう?」と何回も何回も、友人達と考えたが、その場は「ボロヴィッツとなった。」と吉田先生が酷評したという結論を胸に、友人達とぼくはわかれて自宅で、ぼう然としていた。
しかしNHKBS午前2時頃7月2日(月)、吉田秀和先生の音楽家への評論の姿勢をお話になっていた。「ぼくは、一度も、すばらしい演奏家を悪く言った、憶えは絶対にないのです。」と若きフランス文学者に答えておられた。そして、フランス文学者から音楽界、特にクラッシック音楽の関係者のあいだで、大きな、大きな問題になっていたという事実を知る。やはり、そうだったのかと、一瞬、あんどの堵の気持を感じた、直後、テレビの吉田先生から出た言葉は、次のようなものだった。「骨とう品は完成度が高ければ、高くなる程、人間というものはそれをほしがるものですよね。」間違いなく骨とう品にまでのぼりつめた方は、その時点からひびが入って、くることをご自分では理解できないのです。ですから、ぼくは、ホロビィッツ氏を全力で応援したのだけれど、どうも世間では、そうとらえてくれた人は、皆無に近かったのです。「ぼくは、巨匠ホロビィッツ氏を酷評しているという報道にびっくりしたのです。」それを聞いた、私はあの25年前の友人達との討論を思いおこし、何と、57才になった今、先生の音楽評論の根本が全くわかっていない自分に、がくぜんとし、それから一睡もできず、そのことばかり考えて、7月2日(月)の早朝5時を迎えた。「もう起床の時間だ。」と重い腰を何とか、ベッドからおきあがり、歯みがきをしつつ、自分の顔を鏡で見た。ぼくの眼はまっ赤であったけれど、ぼくの眼は死んでいた。
何とか、気合いを入れ、身じたくをしている最中でも、ずっと昨夜の吉田先生の言葉が頭から、はなれず、まるで、タコの吸盤のように、ぼくにくっついてきて、なかなか、はなれては、くれなかった。もう一度、テレビでの吉田秀和先生の一言一言を懸命に思いおこしてみた。その中で先生は、4年前に、ともに人生を静かな足どりで、歩んでくれた、バーバラ夫人が、天に召された時のことを、いつもの、ゆっくりした先生の口調で、述べられていた。「バーバラさんとは、50年の永きあいだ空間そして時間をともにしたし、私の苦しい時も、また楽しい顔をしてくれた方だ。そのバーバラは、今はいない。しかしそれをぼくは絶対に心にうけいれることはできないし、強く拒否しつづけていた。そして、バーバラは私の空気のような方だったので、私は息ぐるしく、息ぐるしく、一度もペンをとることができず、4年間の歳月が流れた。その時、とてもぼくを心配してくれた文芸部の方から、先生の音楽評論の欄は、いつもあけておきます。もしも、もしも、ペンをとれたあかつきには、この白紙の欄へ文字をうめていってみてはいかがでしょうか、私はずっと白紙の欄がうまることをお待ちしています。ばくは何とすばらしい友人達に、恵まれたのでしょう!ぼくなんかにこれ程のことをしてくれるなど、はずかしくて、はずかしくて、益々、ペンをとれなくなったものです。」
画面がインタビュー場面から変わり今日も先生お気に入りのスリッパとお気に入りの椅子に、その長身をよこたえて、めいそうするように、きわめて、そまつなオーディオの機械から出る音をひろっておくられた。若きフランス文学者が、「先生、オーディオの機械には、こだわらないのでしょうか?」という間に、「音は安いオーディオでも、高価なオーディオでも、ぼくにとっては、全く意味のないことです。音楽とは、その方の気はく、そして、次に何の音がするかの、わくわくとする瞬間の連続だとぼくは、思います。」と答えられた。私もその通りだと、同感していた。外国の方と結婚されている娘さんが、先生の鎌倉の自宅を久しぶりにおとずれ、娘と先生があいあい傘でぼくもよく知っている小町通りの肉屋さんにお二人仲よく入り、ソーセージを200g買い求めていた。「買物は楽しいんだ。バーバラさんがいつも、ソーセージとザワークラフトで食卓を楽しくしてくれたんです。」「さあ久しぶりに、今日は君のために腕をふるうことにしようか」とやさしく、娘さんに言うと、にこにこと何も言わず先生と又、小雨ふる小町通りをあいあい傘で自宅へ急ぐ姿を見ていると、何とオシャレで、男として、亡きバーバラを追想する吉田先生には、今、何の不安もないように、見えたものだ。若きフランス文学者と吉田先生が、きょうも先生のきまったお気に入りの散歩道の由比ヶ浜をゆっくりゆっくり、歩いていた。両手を丈の長い白いパンツのポケットに手を入れ、上着は先生お気に入りのライトブルーのカシミヤのセーター、そして首にはチーフのいでたちであった。若きフランス文学者に、「最近のフランスの海岸はどうですか?」と優しく聞くと、その文学者は「今は、私には、あまり目に止まらなくなってしまったんです。」と答えていた。吉田先生は由比ヶ浜の海をやさしいまなざしで少し目線をやり、「ここ、由比ヶ浜も、ずいぶん海が勝ってきて、砂浜がずいぶんやせてきたんだ!」と残念そうに足もとの砂浜にかくれた、貝殻を何とか見つけようとゆっくり、ゆっくりと歩いていた。きっとバーバラ夫人と手をつないで、この由比ヶ浜をご一緒にバーバラさんのために砂浜にうまっている貝殻を一生懸命優しい眼でさがしておられたのだろうと、ぼくは、冥想していた。とにかく、何をとっても、素敵、そしてその知性、そこからでる、するどくそしてやさしい演奏者達の応援の言葉をおしまない、音楽評論家吉田秀和の実像にふれた思いがした、あまりに短い時間であった。若き指揮者の巨匠、ヘルベルト・カラヤン氏がベルリンフィルハーモニーオーケストラを率いて、初来日した時、カラヤンは若く、とにかく、若いエネルギーに満ちていた。「カラヤンは、常に他の天才指揮者達と比べて、あきらかにタクトが早い。カラヤンが披露したのは、ベートーベン交響曲第5番(運命)であった。その演奏について、しっかりとした記憶で、吉田先生はこう述べられていた。「カラヤンはたしかに早い。早いタクトは誰だってできる。しかしカラヤンは全く違った。彼はそのしらべの流れの早さの後に、何か、わくわくとさせるものを常に期待させる指揮者とぼくは思います。」「とにかく音楽は、たのしくなくていかんと思う。」「そして常に聴衆者達にこの次は何なのかというこたえられなければ、その方の存在は意味のないものになると思います。とにかく仕事とは、仕事として選んだものが、楽しくなくてはいけないんだよ。とにかく楽しく、なくてはいけないと思います。その仕事が楽しくて、楽しくやっている時こそ、クラッシックファンの方々も楽しいものだと思います。いやいや苦しい仕事をして、本人も楽しくないし、聴衆も、全くげんめつすることと思うと思うなあ、とにかくぼくもペンをとって名演奏家に対して応援者のちっぽけな一人として応援文を書いている時が、ぼくの生きている時間で最も楽しいことだと思うな」それが、書けなくなったら、ぼくの人生は幕を閉じることに、なるといつも思います。」と言って、また、お気に入りのスリッパとお気に入りの椅子にすわって決して大きいとはいえない小さな畳の室におかれた、やすいオーディオを聞きながら、音をひろっている姿を映して、一日の吉田秀和先生の姿がテレビの画像から消えた。
ぼくは、いつもクラッシックの演奏会へいくと、まず、自分のすわる席の確認より先に、きようは吉田先生とバーバラ婦人が、彼らだけのための指定席についておられるか常に、確認するくせがすっかりついてしまった。吉田ご夫婦がいない演奏会はなにか、不安で、何かものたりない気がしたものだ。あの特徴的な神にも声をかける迫力のある尖塔のように立っている白髪はぼくの人生で絶対にわすれられない記憶になると思う。又、どこかの演奏会で、バーバラ婦人のいない吉田秀和先生を確認したいと、今でも、期待をいだいている自分がここにいる。

2007年7月3日(火)雨模様、自分が働いている夕べの診療室の片隅で!

平成19年07月01日

「昭和史の語べそして7ヶ国語をあやつるアジアの救世主、宰相宮沢喜一先生のご逝去に思う!」

私が、最も尊敬していた、元内閣総理大臣 宮沢喜一先生と、元内閣官房長官(故)伊東正義先生と私との出会い。

まず、伊東正義先生とは、大平首相急逝のため、内閣総理大臣臨時代理者の立場におかれた時のことである。私の大学の親友に会津の斉藤君がいた。その時はもう斉藤君も私も長い長い学生生活を経て、互いに生れ故郷で臨床にあたっていた。会津の斉藤君の友人からお電話を頂き、予約の患者様の治療おえて、すぐに会津に向い川桁の斉藤家に到着した。斉藤家の大きな大きな屋敷が、その昔の名家を彷彿とさせるたたずまいであった。玄関へ入ると斉藤君が私を待っていてくれ、すぐにお父上の仏壇に向いご焼香させて頂き、手を合わせ、こうべを低く垂れた。そして焼香が終ると次の間の大きなお部屋でお茶を頂いている時、ばかに質素な黒のクラウンが静かに止まった。一人の初老に見えた方が喪服を着ていらして、お一人で斉藤家を訪ねられた。そして未亡人となった、お母様に深々とこうべを垂れ、初老の紳士は、一礼をして仏壇になにやらお言葉を遺影に向って、わりと聞きとりやすいお声でした。伊東正義先生の弔辞の内容の要約は次のようなことでした。
「斉藤、遅くなってすまん。濡れ衣をきせられた会津藩のこの伊東でも、総理大臣臨時代理にならせて頂いた。なぜ、一目私の姿を見てくれたのか、なぜ私より早く旅立ってしまうのか、それが、悔しい、濡れ衣がもう少しではれようとしているのに、そしてこのぼくの白髪頭をなぜ見ないで、旅に出たのか、私は悔しくて悔しくてならない。」というもので、伊東正義先生と旧制会津中学時代、斉藤君のお父上と同期の桜であった。仏壇からはなれもう一度、深々とお母上にこうべをたれた。そして、私のとなりに座られ、「あなた様は斉藤君とは、どういうご関係ですか?」と言われ、私が、「ご逝去された、斉藤先生のご子息が私の大学時代の同期であります。」と答えたら、伊東先生はやさしい顔をなさって、「どちらからいらしたのですか?」とお聞きになられたので、「大変遅くなりましたが、神奈川県より参りました」お答えした。そうすると伊東先生は深々とこうべを私にさげられ、「よくぞそんな遠方から、斉藤のためにかけつけて下さりありがとうございました。」と言われたので、私は、「伊東正義先生こそ、今、大平首相の突然のご逝去により、内閣総理大臣臨時代理者として、毎日多忙極まる日程のなか、大変ご苦労様です。」とお答えした。伊東先生は「私は、旧制会津中の親友なので当然であり、しかもすでに告別式も終った時にかけつけるなど、とても斉藤家に失礼なことをしました。あなた様こそ神奈川県から、斉藤のご子息の同期でありまがら本当に遠方からご苦労様でした。」ともう一度私に対し、慰労の言葉をおかけになられてしまった。私は緊張のあまり座っていた座ぶとんから立つことができず、失礼にも伊東先生のお隣りにずっ〜と座っていた。そうすると、村長さん、駐在のおまわりさん、お寺の住職、小学校、中学校の校長先生、旧制会津中学校時代の同期生の方々と次々にこられ、伊東正義先生を中心に大きな輪ができ、お父上の思い出話をそれぞれ、お話になされたことを今も昨日のことのように脳裏に浮かんでくるのである。大平総理は、総理就任が決まった直後、農林省事務次官を努められた、伊東正義衆議院議員に「どうか私の内閣官房長官に何とか、ご就任願えませんか」と懇願なされたが、「私は、浅学非才の身とうてい大平総理の女房役なぞ、めっそうもございません」再々、就任を固辞されたが、大平総理は、「私は貧しい貧しい香川県に生れた農家の出身で、クリスチャンであります。そして私の政治信条は、「野党が与党に接近して、野党の力が非常に強い時こそ、与党は、正しい政治的選択をするものと考えます。」と伊東先生に言われた。その言葉に胸を打たれ、「会津っぺ」の伊東正義先生は、大平内閣の内閣官房長官に就任されたいきさつがある。大平総理が選挙演説中に倒れ、虎の門病院で、薬石の功なく、急逝された後、自民党の大幹部達が三顧の礼をもって内閣総理大臣に就任することを、伊東正義先生に懇願するも、伊東先生は、「私には、自分の能力と体力を考えると、とても日本国の内閣総理大臣なぞ恐れ多くてできません」とお答えになり固辞しつづけられた。その結果誕生した、鈴木善幸内閣が発足し、鈴木氏に強く要請されて、外相に入閣するものの、外交政策において鈴木総理とことごとく政策が異なるため、鈴木首相に外相辞任願いをたたきつけて、政界を去ってしまった。ことは、あまりにも有名な話であり旧宏池会の有力メンバーならその方々には周知のことだ。その選挙中に倒れ急逝された大平内閣の賛否をかける解散総選挙の結果は、大平人気ではからずも、自民党が大勝利に終っていて、与野党のバランスが全く崩れていた状態である。外相辞任の理由に、鈴木総理のアメリカ追随主義に対して伊東外相は、大平前総理の東南アジア重視主義を継承していたからといわれている。大平氏も伊東氏もそしてこれから述べる宮沢喜一氏もアメリカ一辺倒主義に強い嫌悪感をいだいておりそろって中国、韓国を含めてアジア諸国との友好こそが、これからの外交の機軸なくてはならないことは三者とも一致していた。多くの宏池会メンバーも反鈴木善幸派でしめられていて、その結果、鈴木善幸内閣は「何もできず内閣」と評価され短命に終ってしまった経緯がある。今回の主題、宮沢喜一先生の人生を検証してみることにする。
宮澤喜一氏のお父上は広島県福山市の貧しい家に生まれた。しかしお父上は、財産をもなげうって、そして地元の有力者の支持もあり東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。ちなみに中学校、高校は名門私立の武蔵中、武蔵高の卒業生でもある。私立武蔵中学校の入試試験では、受験勉強を好まず、ひたすら、読書にはげんでいたため、合格者81名中の21番目の成績で入学したことがわかっている。東京帝国大学卒業後すぐ、大蔵省に入省し、大蔵官僚のスタートとなる。そして、昭和26年サンフランシスコ講和条約時の吉田首相兼全権大使の随行団の一員に若くして選ばれる。随行員には吉田茂首相を支える池田勇人大蔵大臣がおり、その池田蔵相の大蔵大臣秘書官として、締結の場にいた吉田首相を含めて三人の中の一人であり、まさに、敗戦そして戦後処理の中心人物の一人であり、随行団の先輩には英語の達人白州次郎氏も蔭の人としていた。それが政治家宮澤喜一氏の人生を決定ずける、大きな大舞台となることになる。宮澤喜一氏は、お父上の生まれた広島県福山市に本籍を残し、父上や自分を東京帝大卒まで面倒を見てくれた地元の有力者の恩返しのつもりで本籍地を福山市に残すこと強く意識している。その時は、まさか、国会議員になるとは、夢にも思わず、大蔵官僚として日本国復興に全身でぶつかることを強く決意していた。宮澤喜一氏は、戦後すぐに官僚として第一期フルブライト留学生としてアメリカ合衆国で学ぶことになる。第一期フルブライト留学生の中にお父上が早稲田大学教授の令嬢がおり、渡航する船の中で知り合い、結婚にまで至る、この方が、宮澤喜一氏と人生を一緒に歩むことになる現夫人である。渡航の船の中での英語で政治そして世界観について討論したことを私は、関係者から直接お聞きしたことがある。アメリカから帰国後、大蔵官僚の道をひた走り、あまりの頭脳明晰さに省内でも有名であった。そしてついに官僚から政治家に転換することになったのは大蔵官僚の先輩、池田勇人総理の強い要請にまけてしまったことからはじまり、池田勇人首相から、参議院議員になるよう再々要請された。そして福山の選挙区から立候補し、当選を果し、すぐ池田内閣の初の経済企画庁長官に異例中の異例の早さで入閣する。それから、岸信介ないかくでも経済企画庁長官で入閣し、衆議院議員となり、佐藤栄作内閣の大蔵大臣を努め、田中角栄内閣の外務大臣、中曽根内閣の大蔵大臣、福田内閣の外務大臣を務め、自民党の総務会長を務め、竹下内閣の外務大臣そしてついに、宮沢喜一氏は当時の若き幹事長小澤一郎氏の強い要請でついに宮沢喜一氏が内閣総理大臣に就任し、その外交の専門家がれつ腕をふるっている最中に、自民党の有力者が次々とリクルート事件で、東京地検特捜部の捜査を受ける。自民党総裁として苦しい立場におかれ、野党から提出された宮澤内閣不信任案が賛成多数で可決し解散総選挙を選択せず、内閣総辞職の道をあえて選ぶ。その後、細川内閣の連立与党体制に入る。それから政界が混迷を深め、その仕掛け人は、いつも小澤一郎氏であった。政界が混乱することを警戒し、国民は、安定政権をつくりたい自民党に加担し、森喜朗内閣がいくつかの内閣を経て、誕生することになる。その時、信じられないことが宮沢喜一氏にふりかかってくる。森喜朗首相から、副総理兼初代財務大臣を強く要請される。「この老体が日本国のお役に信に立つと総理がお考えならば、最後の仕事として老体にムチを打って、お引き受けいたしましょう。」と言って、憲政史上二人目となる、総理大臣経験者は、一人目は、高橋是清首相が総理をおりた後に犬養毅内閣の大蔵大臣になって日本の金融危機を救ったという事実があった。それから世界各国首脳達から、「昭和の高橋是清」というニックネームで呼ばれることになる。

宮澤喜一元首相の重要な役割した事項

1. 昭和26年9月
サンフランシスコ講和条約締結
ここでアメリカ合衆国を中心とするGHQ(駐留軍)の占領から脱出し、いわゆる占領状態から日本国は独立国となる
GHQによる占領は6年間続いた。

2. 日米安全保障条約
   日本政府側にも大きなミスがあり鳩山一郎元首相、岸信介元首相の要請
 不完全な条約と認識

3. オイルショック時の危機からの脱出
   オイルショックの危機で省エネルギーを考え日本でエレクトロニクスが高度に発展し、その結果日本は世界のハイテクノロジーの先頭に立つ

4. 湾岸戦争に思った信念
日本が外国でできる限界はPKO協力法まで。
あらゆる事態になろうとも絶対に、武器を外国で自衛隊は使用してはいけない。
カンボジアPKOでは自衛隊派遣を決意
自衛隊は橋をかけたり道路を修復したり、いわゆる国づくりの手伝いに徹すること
カンボジアPKOでの二人の死者について
一人は文民警察官高田晴行警部補もう一人はボランティアの中田厚仁さん
このお二人の死は、自分の責任として一生背負っていかなくてはならないと強く心にいましめる。

5. 日本は決して海外で武力を行使しないこと
   自衛の名の下で、日本が過去、海外で武力を行使して、日本にとって良い結果になったことは一度もないと説く。

6. 日本企業の投資で東南アジアが工業化した
現在東南アジア諸国連合(ASEAN)の国々に莫大な投資を日本企業の私的投資と認識している。

7. 日本、米国、中国との協調
とにかくこれからの中国とのおつき合いのやり方は日本国の存亡にかかると主張している。


宮澤喜一氏からの21世紀の担う若者諸君へのメッセージ

「これから、日本にとって、自由というものがなくならないように、最大限努力して欲しい、若者諸君は自由を当り前のことと思っているでしょうが、戦争に負けた世代の自分にとって一番心配していることです」

このように宮澤喜一氏は昭和史の大変化の節目、節目に蔭の役割を必ずしているし、平和主義者、反戦主義者で、「日本国憲法を守ること特に9条には一筆たりとも入れてはならない」と信念を持ちつつ、天国と旅立たれた方である。私は、2度、関係者のご努力で直接お会いをし、宮澤先生の政治信条、世界観について伺ったことがあります。1回目はホテルオークラで2回目はアメリカ大使館前のビル内の宮澤先生の事務所で

宮澤喜一氏の最後の遺言

「日本国の方々は自分の国は小さい資源のない島国であることを深くご認識して頂き、国民一人一人で世界観をもって、日々、日常生活していただきたい。そしてヨーロッパ型の社会民主主義の新党が自民党の対立軸として、いち早く日本にほしいと思う。」

私と宮澤喜一先生との二人だけの最後の会話
「坂本君、まず日本国民の歯を守って頂きたい、自分の歯はとても大切だよ。
日本国は、世界的にはいまだ、半人前だよ。真の独立国になっていないもの!まだまだアメリカの奴隷で占領が現実的には続いている。そうだなあ?独立国として成熟しつつある国を挙げてみれば、三つある。一つはフランス共和国、二つにはドイツ連邦共和国、三つ目はフィンランド共和国ぼくの頭には、その三国しか今は浮かばないなあ!坂本君、世界観を常に持った日本人になってくれよ!とにかく中曽根さんは、しぶといね!体力もある!私は柔道もやってきたがやはり弱いからだだなあ!」

平成19年6月28日(木)
宮澤喜一先生、気になった英字新聞を2回目にチェックしつつご自宅で、静かな、ご逝去
ご夫人の前で、
享年87才
宮澤喜一先生を尊敬する平和を愛し、愛は尊いと思う一庶民代表
坂本貴史記

合掌
平成19年7月1日(日)

平成19年06月18日

第1号 2007年6月17日(日) 父の日

「年金問題一つとっても、悪賢い官僚と、その官僚の奴隷となった議員達と愚かな日本国民の頭の程度がわかる」

検証1  

 池田元首相の所得倍増計画について

 池田勇人元首相は、衆参両院の所信表明演説で所得倍増計画を表明した。その中で、のちに有名になった「貧乏人は麦を食え!」と声高らかに演説した。当時の愚かな国民達は、一せいに、これに反発し、国民への差別発言としてとらえ、強烈に元首相、池田勇人氏に社会党を中心とする野党が猛烈に党をあげて反論する。
ここで、私は次のようにこの計画を検証してみることにした。池田勇人元首相は、とても頭脳明晰なするどい人であった。彼は吉田茂内閣の大蔵大臣を努め昭和26年9月の有名なサンフランシスコ講和(屈辱)条約を締結した全権大使吉田茂元首相の随行団の一人であり、その中には、宮澤喜一元首相そして、白州次郎氏が随行団員としていた。随行団の一人 白州次郎氏はGHQ(太平洋連合軍の駐留部隊)が草稿した英文を夜中に見つけ、一晩かかって、英文を美しい日本の文章に直して、巻紙に筆で大きな文字を使って、一部、書き直して、又、加筆してしまった。日本文を差し出す白州次郎氏に対して、吉田茂元首相は、ふん然として若い白州次郎を叱りつける。そこで若い白州次郎氏が、「吉田先生、先生には大和魂がありますか?」ときりかえす。吉田茂元首相は「私は土佐藩の大名の血筋だ。もちろん君に言われなくとも私には大和魂はもちろんある。」と答える。そうすると、白洲氏は吉田元首相にこう進言した。「先生、それならこのサンフランシスコ講和条約を私が訳した、日本語で、大きな声で、ゆっくりと、そして堂堂と読み上げて下さい。」と懇願する。英語の達人吉田茂元首相は、若い白州次郎氏の真剣なまなざしを見て、一言、「白洲君、わかった、私は日本人なので、日本文で君の訳した締結文を演説に使わしてもらうよ。」と言った。白州次郎氏には、安堵の心が湧き溢れる。その内容は、GHQがスタンプを押した草稿した英文とは全く異なり、「我々は、戦争には敗けたが、GHQの奴隷ではない。一時、日本の領土である沖縄を中心とする八重山群島は、占領されているが、しかるべく時がきたら必らず、GHQから日本国へもどすことになる。となっていた。英文に何十回も目を通した吉田茂元首相は、GHQの草稿した英文と全く内容が違っていることにすぐ気づいた。しかし、彼は顔色一つ変えず、白州の文章を演説しつづけた。
GHQの幹部は、頭の中がまっ白となり国連の場で反論する余裕がないままに、演説が終ってしまった。国連を構成していた各国の全権大使はこの演説に拍手をおしまなかった。その貢献があったからこそ、沖縄を中心とする八重山群島の大部分が、昭和47年5月15日に日本国にアメリカ合衆国の占領からもどって来た。これが有名な、沖縄返還の日である。その時の外務大臣は愛知揆一氏だった。
話をもとにもどすが、そのサンフランシスコ講和条約の演説のいきさつを、池田勇人元首相も、宮澤喜一元首相も熟知していた。その時の素直な感想を最近、宮澤喜一元首相はこう述べている。「白州さんは、とても若い方なのにすばらしい英語力を持ち、とても紳士であり、おだやかな方だった。」と述べている。一部しじゅう知っている池田勇人元首相は官僚出身者であり、宮澤喜一も官僚であった。そういうことをふまえて検証すると冒頭に述べた池田勇人内閣の政策目標である「所得倍増計画」と「貧乏人は麦を食え」という所信表明演説は、「日本人の所得が自分の現在の所得の2倍となるまで、安い価格で、かつ健康にとても良い麦を食べて、つつましやかな生活をしてほしい」という国民に対しての日本人でないと解釈できない内容であった。成り金達やごく一部の日本での富裕層と錯覚している人々に価格が、非常に高額な、米を食べてもらって早く、他界してもらえばよいということだったのだ。しかし、貧困の苦しむ人が支持する日本社会党は、何を間違えたかこれを貧困層への差別と早合点して猛烈にこの計画の阻止行動にでた。多くの愚かさに気づかない国民もそれを支持した。その結果、官僚と深い関係を持つ経済団体が所得が上るにつれて、インフレ政策をとり、物価もはねあがってしまった。
池田勇人元首相は、「日本国民は何と愚かな人々なのだろう、私の信念が伝わらない。それどころか、私は救うつもりだった貧困層からの、自分への猛烈な反発に彼はショックをかくせなかった。」やはりこの時もずる賢い官僚は、すべて池田勇人の経済政策をチェックしていた、そして池田勇人元首相にインフレ政策をとらせるようにしくみ、見事に物価が所得とともに高騰した。結果的に国民の所得倍増はしたもののそれにつれて物価も倍増してしまった。日本国民の多くは自分の所得が倍増したことに酔い、物価が上り、所得税も上ることに心をくだかなかった。その結果は、所得が2倍となっても物価や税金の上昇のために、所得倍増計画の前と後では、何も変わっていない社会情況になってしまった。

検証2

 次の岸信介内閣は、日米同盟が、最大の政策課題であった。
あの忘れろと言われても私を含めて団塊の世代が一生忘れない1960年6月15日、という年と日、それは、岸信介首相ひきいる日本政府とアメリカ合衆国とで、はじめて締結する、日米安全保障条約締結を事実上きめた日であり、日本政府が得意な強行採決をくり返し行なった日であった。
これに猛烈に反発した、学生達、そして日米安保同盟に反対する勢力、つまり社会党、そして一般市民、そして、世界の政治思想に詳しい知識人達そして女性たちの団体、主婦連や被曝者自身やその被曝者の子供たちや、その苦しい生活を支援する多くの団体、そしてほとんどの組合労働者、そして大学の教授たち小、中、高の反戦意識の高い教師の団体、又個人そして一人で行動する世界観を持った人々、反戦、平和運動家達、平和を愛する全国各地から東京の国会へ集った一市民達が一緒に国会議事堂のフェンスを破り突入し、日米安保条約締結の反対を大合唱し、その中に後に名俳優となった早大の政経学部の学生自治会委員長山口崇氏、後に名映画監督となった京都大学の学生自治会委員長大島渚氏、そしてお父上が東京大学教授で、ご自身も東京大学文学部4年生の樺美智子さんがいたが、警視庁機動隊の反撃で下敷になり樺美智子さんは、21才の若さで他界してしまった。
悲劇というか悲痛の想いがする1960年6月15日である。
その岸信介内閣のもと衆議院議院運営委員長を努めていた、国会運営の達人小澤佐重喜氏は、特別委員会も、もうけず、常置委員会に付たくせず、直接衆議院本会議の議長に対し日米安全保障案を上提し、与党の多数で可決された。日米安保特別委員会の委員長をした小澤佐重喜氏であり、その小澤佐重喜氏は、吉田内閣の第二次より第五次内閣で重要閣僚を努め、池田勇人内閣でも重要閣僚を努めた方だ、その人こそ現在の民主党代表小澤一郎氏の実父であることは、古い国会議員各位なら、皆、周知のことだ。

      平成19年6月18日
            坂本貴史

追伸:
 この続きは、次号「その2」で発表するので、しばらくのご猶予を切にお願い申し上げます。読者の年金についてご心配なさっている方には次号でしっかり述べてまいります。


大岡相模守貴史の裁き (平塚市紅谷町奉行所にて)

紅谷町奉行所の白州にひかえし、すべての衆参国会議員ども及び一府13省の高級官僚といわれし者どもに告ぐ!

明日の命は絶対にないものと思へ、そのうえで貴様ども勝手にせい!

追っての申し渡し

国会の衆議院に在籍せし者の中より現民主党代表小澤一郎並びに現自民党幹事長中川秀直に申し渡す。

宣教師としてこの世を破壊しようと野望をもった竹中平蔵、名役者として世に名を残し講釈師の達人となりせし野望をもった小泉純一郎、高利貸しの帝王となりせし野望をもった宮内義雄、バテレンどもと荷車屋の組長となることに野望をもった奥田碩の4人組に対し日本国の破壊そして転覆を図った罪状は明らかなり、よって4人組を全平民の前に引きづり出し本奉行所の白州にて全平民に対し直ちに土下座すること宣言せしものとする。しかるに今夏の参議院選挙の後、直ちに民主党代表小澤一郎と自民党幹事長中川秀直は即座に一文なしの平民でこの世を愛せし頭脳明晰な者どもでも、総理大臣となれる新党をつくり故田中角栄元首相の遺恨をはらす為、政界の大掃除をせし後に、政界大再編をいたすことここに申し渡す。

平成19年04月17日

(坂本貴史から全日本国民に急告させて頂く!)

 日本国の全国民が最も大切にしている統一地方選挙中の長崎市長候補現市長伊藤氏が公正な選挙活動中にテロリストによる狙撃をうけた事実だけでも伊藤長崎市長の容態の安否を問わず、即時に安倍内閣のつまり政府のテロリストに対する危機管理が全くできていないことを露呈した証拠であり、国務大臣国家公安委員長及び安倍内閣は、即刻、総辞職せよ!!

そして長崎県警本部長及び県警備部長を検察庁長官は即刻、重い責任を感じ即刻懲戒免職することを通告せよ!そして公職選挙法を司る法務大臣は国民の前に出て国民へ向けてあらゆるメディアを通じ、即刻会見せよ。現在憲法を改悪につながる手続き法を推進している自民党、公明党の国会議員はこれを深刻にうけとめ、憲法改悪につながる手続き法の参議院の委員会質疑を即時に中止し、この日本国はもはや、民主主義、主権在民をおかされた世界的視野に立ってみればまさに野蛮国になり下がったことを世界へ露呈したことは、戦後日本の憲政史上はじめての世界へ対しての屈辱であるテロリストに対する反乱に全国民は政府へ深い反省を求める権利を有するのである。核全面廃絶平和宣言都市を継承している市の市長選挙を、選挙管理委員長は即刻、選挙を中止し、テロリストへの警備が万全となったことを選挙管理委員長と全国民が判断するまで、統一選挙の中止を宣言せねばならない。
私が住民票を置く核全面廃絶平和宣言都市、神奈川県平塚市の市長選挙も現在行なわれている。核全面廃絶平和宣言都市を継承している現、大蔵律子平塚市長の選挙活動に対し、県警の警備は全くなされてないことに強い憤りをかんじるのは平塚市民26万人の市民の叫びであることは、安倍内閣は、真摯に受けとめなければならない。アメリカ合衆国が石油利権の独占を目的にしかけたいわれない卑怯なイラク戦争によりチグリス、ユーフラテス文明の聖地バクダットは死の都市と化したことに加担した前小泉内閣、安倍内閣の責任と罪は世界史上はかりしれないあやまちである。もはや日本国には、民主主義など存在しなく、またテロリストを野放しにしている無法地帯となっていることはアジア文明の聖地バクダットと全く、同じ状況になっていることを物語っているのだ。どう主権在民、そして、現在世界に誇れる日本国憲法を守り抜くことが、国際社会の仲間入りする最低条件であり、まさに発展途上国は我日本国だということを日本政府、つまり安倍内閣は認識し、恥を知った方がよい。私はあえてことわっておくが右翼でもなく共産主義者でもなく共産党員でもなく、私は愛国主義、平和主義、そして武士道精神をつらぬく平塚の一市民であることをここに宣言しておく。核全面廃絶、そして平和主義のシンボルである、現伊藤長崎市長の容態が私の睡眠をさまたげる、伊藤現長崎市長、死んではいけない、頑張れと神奈川県平塚市の一市民が叫んでいることを伊藤長崎市長の死の界とさまよっている耳へとどくことを哀心より祈念している。
核全面廃絶平和宣言都市に住む坂本貴史の強い願いである。

     平成19年4月17日(火)
       午後9時30分

平成19年04月15日

(中華人民共和国温家宝首相閣下の国会演説の誉め殺しに屈服した安倍内閣と国会議員たちのこれからの行動が心配だ!)

 2007年4月12日(木)午前10時より河野衆議院議長の開演の挨拶に続き、中華人民共和国温家宝首相閣下の中国要人としては国会での演説は21年ぶりのことであり、演説は全くとぎれることなく35分間続いた。温家宝首相閣下は、まず温故知新の戦略に出て、第8次遣唐使に同行して中国に出向いた阿倍仲麻呂の生涯そして唐招提寺の開祖鑑真和上の生涯そして功績からはじまり時代をうまくポイントを使ってふりかえり、地球環境つまり、温暖化阻止の問題、自国の状態、貧富の差が極めて大きい格差社会を認め、発展途上国だと宣言し、日清戦争そして第二次世界大戦を過去の少しのプラス、マイナスの経験とひとまとめとし、日本からのODA支援に対する丁重なる感謝、そして日本へ留学した郭沫若、魯迅、周恩来たちの生涯を述べ、中日の人的交流、文化的交流、そして科学的交流、そして貿易の交流、そしてその輸入、輸出分野でも中国にとっても日本にとっても最大のパートナーであると声高らかに世界に向けて宣言し、北京オリンピックの宣伝を世界に向けて行ない、日本の大手企業の工場が撤退することに釘をさし、中国人の移住を在留日本孤児帰還を中国の功績とし、中国と日本が同じ価値観、同じ人間愛、又、同じ思想感を持つ東アジアの一番仲の良いパートナーであることを通告された。その結果、日本の全国会議員が与野党をとわず、大きな拍手をもってスタンディングオベーションをしたことは、日本国が中国の一部に併合されかかっていると認識した人間がどれだけいたのかが、私の現在の一番の心配である。私は4月12日(木)にNHK総合ラジオをその演説を車中で聞き、往診先の知的障害者総合施設に到着してしまい駐車場で車をおりることができず、まるで政治記者のように手帳をとり出し、中華人民共和国温家宝首相閣下の誉め殺しの演説をくまなく速記していった。その35分間は私の悪夢にも似た思いがしたのである。その天才的な温家宝首相閣下の誉め殺し演説は、絶妙な日時、そして季節そして中日国交樹立35周年の年をえらび、都知事の結果判明後、そしてNHKの大河ドラマ山本勘助を主人公とした風林火山が現在放映されたことをうまく利用し、世界環境機構の世界大会が開会される前に地球温暖化の阻止を宣言し、訪問先も対面相手も、茶道もわざわざ宮中と関係のある裏千家を選び、京都の嵯峨野にある周恩来の碑石の前に献花、中日友好の推進派の代表格である創価学会名誉会長池田大作氏と固い握手をかわし、京都の大学生達と野球を楽しみ、そして東京では、表参道附近で日本人にまじってジョギングをし、閣下が得意の大極拳を披露し、庶民的、そして若さをアピール、そして農家を訪ね、ハイテクの工場を視察し、東京大阪の経済界の要人達と多くの時間をついやし、「中日両国関係は雪や氷どころか、今、たからかに中日友好の花が咲いた」といって絶妙な時間の割り振りで当初の役目を終り、関西国際空港から笑顔をたえずたやすことなく帰国の途についた。
私は、日本政府、また国会議員各位、また、日本国民の脳を錯乱させることに成功したこの中華人民共和国温家宝首相閣下のご訪問は中国にとって完勝だと私はこうべをたれた。さあ、ここで日本政府、そして、国会議員各位が、統一地方選挙、日本国の天王山の戦いである夏の参議院議員選挙を頭の中においた中国の優秀な官僚達や温家宝という天才の政治家に日本政府及び国会議員各位そして有識者各位が日本人としてどう戦を挑むかを一人ぽっちで期待している。
       
    2007年4月15日(日)
        坂本貴史拝

(中華人民共和国温家宝首相閣下へ御伝言!)

温家宝首相閣下が帰国の途につかれる特別機のタラップで述べられた「雪や氷は完全に融け花は咲いている」とお述べになられたその昼に安倍総理主催の「桜を見る会」の会場である新宿御苑は日本人の心を象徴する吉野桜(ソメイヨシノ桜)は見事に散り、「どくどくしい八重桜」だけしか温家宝首相閣下へのプレゼントとして献上できなかったことは日本人の私にとって誠に誇りに思うしだいであります。

平成19年02月18日

(我輩は、ヒゲをぬかれた虎である。唸るその1)

 何と5月に実施されるフランスの大統領選挙の最大の争点は「どうすれば、地球温暖化が進んでしまうのをどう阻止するか」ということである。何と我、日本国の国政選挙の争点の次元の低さに我輩は、愕然としてしまう毎日が今も続いている。我輩も「知に働けばカドが立つ、情にさおさせば流される、とかく、この日本国は住みにくい」とつくづく思う。さあ、維新が終り「美しい日本国」がいつはじまるのか、我輩は虎の目線で見ている。もう南極の氷河もとけだし、北極の氷河も半分となり、南極ペンギンや白クマの命も危機にさらされている。我輩の日本国でも気象が混乱し、昨年から秋空はなく、2006年9月、10月、11月、12月そして今年2007年の正月から地球という惑星が完全に惑いはじめ、地球に生きとし生けるもの草花、雑草をはじめとする木々やそして鳥類、そして動物、とりわけ4つ足で生活する哺乳類の心が動揺しはじめてついにこの正月から彼らは惑ったあげく見事に決断をしはじめた。全く惑いのない地球に一番近い恒星、それは太陽なのだ。最近気象衛星ひまわりが地球に送ってきた画像でやっと生きている太陽がメラメラと燃えたぎり限りなくエネルギーを現在も出しつづけていることを先述したように我輩の国の少数の方が知ったようだ。水仙は見事に2月で枯れてしまい、梅は見事にもう散ってしまった。そして桜は見事に開花し、河津桜は満開をもう過ぎ、菜の花は黄色い花をつけ、堤や里山が土筆でいっぱいだ。そして動物とくに哺乳類のクマも冬眠を止め今、現在、町の中で活躍し、草食動物の日本カモシカも、我輩が釣りをする川で草を食べ水を飲んでいる。見事に地球上の生きとし生きるものがりっぱな決断をしているのに、2本の足で歩き、生活をしている、そしてめずらしくあお向けで寝る、そして深い思考回路を持ち体毛が冬と夏で生え変わらない奇妙な哺乳類だけが、今でも、この世の混乱に対応もいっこうにできず、全く決断できず、惑い続けている、往生際の悪い哺乳類が残っている。我輩には、それが我輩たちを支配したと錯覚している人間様だということも、どうも我輩の飼育係も全くわかっていないようだ、だから、我輩は、ついにこの日本国が住みにくくなったのだ。人間様よ、しっかり、決断してくれと我輩は言い続けているのだがさて、人間様が支配者と錯覚している日本国がいつまで、もつか、惑っている惑星である地球がいつまでもつか、とても我輩は心配だ、なぜなら我輩の飼育係を人間様がやっているから我輩の命にかかわってくるからだ。
とにかく、我輩が住む日本国の人間様よ決断せよ!!
  
      2007年2月18日  漱石

平成19年01月22日

(2008年〜2010年にかけて世界全体が何かが変わる?その2)

 私見で、日本の憲法大改悪とそれに伴う、地球の人類が犯人の温暖化の原因で食糧の奪い合いが局地戦が世界大戦になるかも知れないという私のひとりごとを言いましたが、その続きを書いてみたいと思います。
まず、フランスの有力新聞ル・モンドやフィガロ、そしてヘラルドトリビューンやアメリカの有力新聞ニューヨークタイムズ、ワシントンポスト等を読んでみて私なりに感じとれることは、まず、フランスからその現象がはじまる予感がします。今年つまり、2007年5月にフランスの大統領選挙があります、当初は男性候補でユダヤ系のサルコジ氏これは親米派で有名ですが、社会民主党の反米派の女性ロワイヤル氏が有力となってきたようです。そして5月はフランスは女性の大統領がはじめて誕生するでしょう。そして我が日本は7月に天下分けめの参議員選挙で、自由民主党が大敗すると、国家予算以外何一つ法律が成立しないという異常事態が起きることになります。そして、安倍内閣は、衆議員の解散という暴挙にはでず、内閣総辞職を選ばざる得ないでしょう。そして次の内閣総理大臣はこれも憲政史上はじめての女性の内閣総理大臣が誕生するかもしれません。実力はともかく、可能性からたどると小池百合子氏となります。小池百合子氏は、今、現在自民党の最大派閥の森派に所属し、前首相の小泉純一郎氏と密接な関係にあり、小池百合子氏の学歴はカイロ大学を卒業し、中東外交交渉にはむいていて、そして、現在、安倍首相直属の外務担当補佐官をしています。そうすると日本の先述したように憲政史上はじめての女性の内閣総理大臣の誕生となります。
次に2008年5月はブッシュ大統領の任期が終わります。当初はアメリカ国籍を持つ黒人の男性の民主党上院議員が有力とみられていましたがニューヨークタイムズ紙を読んでいると同じ民主党の上院議員の女性候補、前クリントン大統領の夫人であるヒラリー氏の方が、大統領として適任であると書いています。そしてアメリカも独立してアメリカ合衆国はじめての女性大統領が誕生することになります。そして、ドイツはすでに女性がシュレイダー首相に変わってドイツのリーダーとなっています。そしてブレアも任期をむかえ、次は保守党の議員がサッチャー氏の推薦でなり、イギリスも女性の首相となり、大統領もエリザベス女王が健在です。次にイタリア、そして、スペインと国のリーダーは女性になるかもしれません。そして東南アジアも、フィリピン、インドネシアも女性の大統領ですし、インドも女性の首相が続くと思います。そしてカナダ、オーストラリアも女性の首相になるかも知れません。
そうなると世界の主要な国力をもった国は、ほとんど女性のリーダーの下に国が動くことになります。ということは、完全な世界の混乱期は、女性がリーダーの方が良いと世界の国民は判断すると思います。我が日本も先の第二次世界大戦で無条件降伏を昭和20年8月15日にしました。
そしてアメリカを中心とした連合軍にサンフランシスコ講和条約を締結するまで7年間の占領下におかれ、独立国ではなくなります。その時、降伏にぼう然としている男子つまり夫の大切にしている腕時計や金属性のメガネのフレームや新しい紳士服を握りしめ、赤ん坊を背中にしょった母が町のそこらじゅうにできあがったヤミ市へ無我夢中で走って夫の大切にしていたものをお金にかえ、また食糧にかえ赤ん坊に何とか乳を自分のからだから出そうと思いますし、家族を飢餓から救ったのはついこのあいだのことです。それは、日本人は全く、忘れさっています。今の日本があるのは先の大戦で生き残った家族を飢餓から救ったのは女性なのです。その時、はやった言葉に「女は弱し、されど母は強し」というものがあります。これも日本人の大半は忘れてしまっています。やはり、現在も、「かかあー天下」の家族の方が平凡な人生を、すごしているのではないでしょうか、女性は忍耐強いし、体力的にも男性より優れでいます。持久力に優れ、平均寿命も男性より10才近くもはなしています。そうなると、混乱期の世界全体の国が女性リーダーになるのがよいと私も考えるようになりました。男性はあまりにもプライドが強すぎます。
我が町平塚市も26万人の人口をかかえる神奈川県の中央に位置する中堅都市ですが、ラッキーにも、今、とてもお金に清潔な大蔵律子という方が市長をなさっています。男性市長ののこした負の財産を不運にも、もらってしまいました。いや、命をかけてその負の財産に後始末をしようとしたのです。彼女も一期目で見事に男性の前市長が残した負の財産をやっとこの4年間で見事にゼロまでもどしました。そしてもう一期4年彼女は命をかけて平塚26万市民を救うために再び立ち上がり、2期8年で自分の仕事を後任者に正の財産としてわたそうとする聡明で、市民感覚を忘れないすばらしい人格の持ち主です。
彼女を4月の市長選で見事に当選させるのが、今の私の直近の仕事です。
そうすることによって平塚市の社会的弱者は救われ、教育再生ができ、また、活力のある我平塚市となることを確信しているのは、今までに市長選に興味がなかった人々も気がついていると私は確信しています。
以上長文となりましたが、私の言いたいことは、混乱期の社会は、戦後赤ん坊を背負って家族を救った母のように、そして女性にリーダーを任せる方が良いのだと思うからです。平塚市を第二の夕張市に決してしてはならないのです。

平成19年01月01日

(2008年〜2010年にかけて世界は何かがかわる?)

新年明けましておめでとうごじます。読者の皆様方にはおだやかな新春をお迎えのこととご推察申し上げます。

さて西暦2007年は2008〜2010年で何かが世界中で変わる前兆の年と欧米諸国の名だたる、メディア(新聞や衛星放送)がずっと伝え続けています。日本で変わることといえば、私の私見では防衛省になった今、2010年には日本国憲法が大幅に変わり、日本も防衛隊という正式な軍隊を保持していることを正式に内外へ表明するだろうし、男子は18歳から徴兵制度を制定するかもしれません。2013年頃には地球の温暖化の現象が如実に表われ、まず水没してしまう国ができつつ、人間が一番必要な食糧の需要バランスが崩れることになるのではないかと想像できます。そして2015年頃には食糧確保のための世界大戦か局地戦がはじまらなければよいと思う2007年になると思います。これはあくまでも私の自分勝手な想像です。2007年という年が読者の皆様をはじめ日本の人々が夢を持てる年としたいものです。日本国はとにかく戦争のない世界平和を希求する責務があると思います。それはこの地球上で今のところ友国であるアメリカ合衆国に第二次世界大戦末期に原爆を投下された唯一の被曝国であり、また終戦後もアメリカ合衆国のビキニ環礁での核実験で日本の漁船(第五福竜丸)の乗組員が被曝をし、先の広島、長崎の高齢者を中心とする方々と被曝での重い後遺症と今でも苦しい戦いを強いられていることを考えると我が日本国は恒久平和の大切さを世界の人々へ訴えつづける責務があると同時に国民一人一人が胸に深く刻むことが今もっとも求められている事を感じなければならない。聖戦など地球上にはありえるはずがないのである。

平成18年10月10日

(ブッシュ大統領のシナリオを考えたボルトン国連全権大使にだまされた、安倍首相の日中日韓会談!)

今回一番バカを見たのは日本であることを、何で国民、政治家、ジャーナリズムがわからないのであろうか。韓国のノムヒョン大統領は太陽政策を大推進していた人物で、北朝鮮を側面から援助していた。しかし北朝鮮と決別してほしかったアメリカは、国連事務総長という名誉を韓国に与えるのとひきかえに太陽政策を中断させた。
だが国連事務総長には何も国連での権限はない。韓国は名誉がほしかった。それに韓国には駐留米軍が全土に展開している。これは、アメリカの同胞中の同胞の軍隊である。また超大国の中国には13億の人間がいるが、地下資源が全くなく、石炭が少しとれる程度で、もうアメリカには魅力のない超大国だ。アメリカは中国を説得して、北朝鮮を援助してくれるように中国に託した。
そして米中同盟を早くつくりたかったのであろう。ところで肝心要の日本ではアメリカの陰で独自に外務省が中東外交を展開し、中東諸国の信頼は絶大なものがある。しかしアメリカがイランを悪の枢軸の一国にみなしたことによって、日本は屈辱の中東外交に変化せざるを得なくなった。その結果イランの石油の採掘権を100%握っていたのに、アメリカの抵抗で15%にまでされてしまった。
日本は完全に経済ブロックに陥った。ブッシュ政権が終り、民主党政権となりヒラリー夫人が大統領になれば、もっと鮮明に日本だけがバカをみたことが如実に表われてくる。次の選択肢はアメリカの51番目の州になるか、中国の支配下におかれるかだ。51番目の州となり日本州は、通貨を米ドルにされるであろう。もうその時代が近づいている。
日本は敗戦国ということを忘れてはいけない。それが私だけのひとり言だったらラッキーだが、世界観をもつ国会議員や外務官僚に最後の期待を託さざるを得ない。これからのアジアの中枢は核保有国で英語を共通語としているインドということは誰でも知っている。
そしてアメリカと対峙するのはユーロを使っている23ヶ国のEU連合の強大な力だということを私達日本人は深く心に刻みこむ必要がある。なぜなら日本が同盟国と思っているアメリカにとって一番こわいのはフランス、ドイツを中心としたこのEU連合であるからだ。

平成18年09月03日

(真の国会議員である小沢一郎氏に告ぐ!
 5年間で全く失ってしまった日本の国家の品格をとりもどせるのは政治家小沢一郎氏だけだ!)

今回は長文で大変申し訳ありませんが、私の本心が書いてありますのでぜひ全文をお読み頂きたいと思います。

 まず、はじめにこの5年間を検証してみよう。小泉首相はまず、「自民党をぶっこわす」とメディアを通じて国民にメッセージを送った。5年間経過して、はじめて日本国民はわかったと思うが、ただ旧田中派をつぶす、そして旧田中派が一手に握っていた郵政族議員をつぶすことで、派閥次元のことで、自分の所属している森派を最大派閥にしただけでさらに悪い自民党になりさがっただけだ。しかし、日本人もそこまでバカではない、多くの日本人は竹中平蔵大臣に洗脳された自分のフィロイズムにおぼれる小泉首相に日本をめちゃくちゃに崩壊されたということは、大半の日本人は気づきはじめた。小泉首相は基本政策で四つの改革を上げた、その一つは道路公団民営化の改革、二つ目は社会保障改革、三つ目は、郵政民営化改革そして一番大切な四つ目の行財政改革であった。まず、道路公団を独立行政法人としたが、民営化して益々悪くなり、官僚の天下りはつづき道路公団の職員は増加し、結局9820kmに及ぶ高速道路を建設してしまうことになった。作家の猪瀬氏を起用したが、猪瀬氏もやはり、官僚には完敗し、自ら墓穴をほった。改革であったはずの道路公団はさらに悪い組織となってしまった。つぎに社会保障改革だ。この内容は、白衣を着て人を救う人々の惻隠の情をなくすまでいじめただけだ。そして元気な高齢者には金を支払え。貧乏や病気の高齢者は死ねということだった。ついには障害者自立支援法にみられるように自分に過失のない自立できない障害者にまで金を支払えといっている。そして年金問題は何一つ改革はできておらず、益々年金への国民の信頼はなくなった。しかし、国会議員の特権である議員年金はやめられず、今もそのまま、自ら襟を正すべき国会議員の歳費は一円たりとも減額していない。税金を支払っていない連中だ、その国会議員を庶民は尊敬などできるはずはない。庶民の憤りはいくらおとなしい日本人でも限界にきている。次に三つ目の郵政民営化の改革である。この事に小泉首相は政治生命をかけ、衆議院ではからくも民営化改革案は通過したが、良識の府であるべき参議院では否決された。ここで小泉首相は狂った。王道は小泉内閣の総辞職であるのに信じられない衆議院の解散をしてしまった。自民党公認の第一の条件に郵政民営化改革法案に賛成することを一人一人の候補者に踏絵をふませた。これはあのドイツの独裁者ヒットラーさえしなかった手法だ。しかし狂った自民党の議員は当選したいがために、自民党公認をもらうために自分の主義をあっさり捨て自民党公認をもらいつまらない代議士となった。これが郵政民営化の結末であり4社分割化は4つの会社への官僚の天下り先をうまく作っただけに終ってしまったのだ。さあそして一番大切な行財政改革だが、これには何も手をつけないまま自分は首相をやめていく、官僚の給料も人員も減ってはいないし、財政改革はあまりにもひどく、ついに国と地方の財政赤字は800兆円の大台をとっくに越えてしまった。そして今、地方交付税で全国の市町村をいじめている。まずやるべき順番は行財政改革であるはずだ。国会議員の人数も半数で充分だし良識の府となっていない参議院などいらないということだ。かって首相だった田中角栄はアメリカのニクソン大統領に許可なく、アジア外交のきめては中国とふみ、アメリカを無視し、日中国交回復を自ら決断をし、実行した。そしてその結末はニクソン大統領を激怒させ、ロッキード事件をもち出し、ときのロッキードの会長のコーチャン氏に田中元首相に不利な供述させてアメリカ側から捜査の手が入り、それが日本の地検特捜部を動かし、今ではわずか、5億円の裏金のために逮捕されてしまった。田中首相の逮捕は当然だが、日中外交、つまりこれからはアジア外交の要になるのは中国と考えた田中首相のすばらしさは、日本国民は全員忘れさってしまった。しかし本物の政治家小沢一郎はそれを忘れていない唯一の後継者だ。政治家小沢一郎氏よ、日本の国家の品格をとりもどすために団塊の世代に呼びかけてくれ。学生運動をした連中は造反有理として国家を変えようとしたが、失敗してしまった。そこで魂を抜かれてしまったが、しかし一番多い人数がいることは確かで、会社の社長や重役、そして諸々の団体の長となっている人が多いこの団塊の世代、つまり私をはじめ一度造反有理として戦った私達の最後の仕事は日本を品格のあるアジアのリーダーとしての日本国を造ることに責任がある。その人間達はきっと小沢一郎氏の考える国家論と今まさに一致すると思う。小泉純一郎、安倍晋三氏と戦うのは今が最後のチャンスだ。それには団塊の世代も必要だし、志のある若者も必要だ。とにかく、日本を救えるのは私がかって一番嫌いな政治家だった、小沢一郎氏であると確信した。小沢一郎氏は記者会見を勝手にキャンセルするのはバカな記者の質問に答える時間があったら自分は政治を勉強したいからだ、これはかって吉田茂の「バカヤロー解散」と私は今、ダブルようになった。小沢一郎氏を団塊の世代、志のある若者と一緒になって日本を救おうではないか、これが私の本心である。

平成18年08月06日

(日本の国家の品格を崩壊させた犯人は小泉純一郎首相と竹中平蔵大臣である!)

 今、全国の書店で珍事が多発している。それは、お茶の水大学数学科教授 藤原正彦氏が出版した国家の品格(新潮新書)という書籍のうばいあいだ。多分もう150万部は完売したと思う。このような内容の難しい本が国民がこぞって買い求めることも史上的にも稀な現象である。藤原正彦教授といえば、山登りをしていた人は全員知っている気象学者で、作家の新田次郎の二男である。新田次郎といえば、あの厳冬の富士山測候所を守りぬいた気象庁の職員だ。これはNHKプロジェクトXの第1回の主人公で知っている方も多いと思う。新田次郎の臨終の直前の子供達に言い続けた言葉は「お前たち、自分の身の丈で良いから弱い人、こまっている人を救いなさい」と言いつづけて他界したのだ。藤原教授はそれは今もしっかりと心の中におさめている。その数学者が、このベストセラーとなった「国家の品格」の著者なのである。私も学生時代は山岳部だったので新田次郎の小説を読みあさった。とても感激をする心にのこる作品ばかりであった。特に「弧高の人」を読んだ後は涙が自然に出てきたことを、今でも憶えている。その二男がまた、私を再び感激させる作品を書いた。その作品が「国家の品格」であり「祖国とは国語」の著者なのだ。内容を言えば、日本人は、惻隠の情が戦後全くなくなってしまった。困った人を見捨てるようになった。極端にいえば、小泉内閣の時からそして小泉首相とアメリカのブッシュ大統領と仲良くなった頃と同時に竹中平蔵という慶応大学の経済学者に小泉首相が洗脳されたころから加速度がかかるように国家の品格が崩壊しはじめた。小泉首相と竹中大臣はアメリカの悪い考えばかりを政治に持ち込み改革という耳に美しい言葉を使い庶民をこの5年だましつづけた。その結果、彼らが目指した格差社会がこの日本に定着しはじめて市場至上主義、拝金主義のエリート達を育て上げてしまった。知恵のない国会議員は、それにのって小泉劇場の大根役者をばかみたいに役者として演じている。やっと庶民、まず高齢者、所得の低い人、障害者が小泉首相と竹中大臣の悪行がわかりはじめ今、白衣を着て人を救う人、消防隊、ノンキャリアの警官、そして救急車にのっている救命救急士、そして小、中、高の教職員がほんとにわかりはじめ、福祉社会の崩壊を毎日、見ているのである。それも、現場で見ているのだ、小泉、竹中両氏は改革を改善という耳ざわりの良い言葉で庶民をだましつづけた。そして彼らは膨大な資金を持った。今や、東大や京大のエリート学生は市場主義、拝金主義に身を染めて東大生のマンションに仲間を集めてITで株の売買をやって大金持ちとなっている。大学の授業すらときどきしか出席しない。日本はもう終わりだと私は確信している。しかし一人だけ日本を救える人がいる。それは政治家小沢一郎だ。彼は個性的で敵も多数いるが、筋金入りの本来の政治家だ。難点は一つだけ心臓に病気を持っているだけだ。しかし、彼は立ち上がった、日本を救うために国家の品格をとりもどすために、そして日本を福祉国家にするために、今度は本気で立ち上がったのである。次回の参議院選挙は前哨戦で、次の衆議院選挙に命をかけて、政権交代をさせるつもりだ。そうすれば腐りきった高級官僚も首をとばせるし、国会議員にも毎日緊張感が入り毎日勉強するであろう。その検証をしているのが今ベストセラーになっている藤原正彦お茶の水大学数学科教授の作品である「国家の品格」だ。ラッキーならば、今、すぐ書店へおもむいて、税込み714円新潮新書の「国家の品格」を購入されてぜひ一読を切に希望するものである。そして次に「祖国とは国語」を読むと「国家の品格」の主張が見えてくるはずである。一度民主党の小沢一郎が政権をとって政権交代をさせて何が変わるか、僕の命のあるときに見せてほしいものだ。

平成18年04月24日

(小泉劇場に陰り!)

千葉衆議院補選でついに民主党が復活、小沢代表効果がでてきました。かなり自民党も次期参議院選挙に苦戦することが充分考えられます。ところで、小泉劇場の観客席で政府の芝居、小泉政権の芝居をよくもあきずに見てきました。5年間を私なりに小泉政権についてを総括すると、日本の制度を改革という名で崩壊させただけだと思っています。道路公団の改革にまず失敗、道路は当初どおり全部建設することになってしまいました。また独立法人いわゆる特殊法人への官僚の天下りつまり行政改革にも失敗するでしょう。そして医療改革は国民と医師との信頼関係を悪くしただけで、国民の医療負担をふやしただけです。これには、憤りさえ感じます。元気な老人だけ生きていなさいということになります。そして決定的なのは、勝組、敗組を日本の社会につくってしまいました、いわゆる格差社会です。千葉の補選の民主党のスローガンは「敗組ゼロの社会をつくる」これが多くの有権者の心をうったと思います。ついに日本国の借金も820兆円となりGDPをはるかにこえています。そろそろ小泉劇場の幕が閉じようとしています。

平成17年12月01日

(天才の小泉首相に勝算!)

郵政民営化を旗頭にした小泉内閣も4年間が経過した。もののみごとに自民党の族議員を崩壊させた。派閥政治も弱体化した。郵政民営化で先の総選挙で大勝した。小泉首相のカリスマ性は落ちず内閣支持率も60%近くである郵政民営化の影で恐ろしい社会保障を崩壊させる障害者自立支援法案も無事成立させた。国民に重い負担を持たせることにも成功したのだ。我々負け犬は小泉首相のハツラツとした笑顔を毎日、下を向いてテレビで見るようになった。勝負はきまった。完全にアメリカ型社会にするような国会にもした。発展途上国なみの社会保障制度の実現にも成功した。小泉の後援会である小泉チルドレンをみごとに作った総選挙のやり方も天才だ。他に日本をリードする人は、今現在日本には見つけられない。これが日本崩壊の第一幕だと知っている小泉劇場で役者を演じている国会議員も皆無に等しいであろう。まさか小泉首相、途中で小泉劇場の主役をおりないでしょうね!小泉チルドレンもきっとがっかりしますよ。私も小泉劇場の一等席で主役の小泉首相がどのように日本社会を崩壊させていくのかじっくりと見学させていただきます。

平成17年11月01日

(圧勝小泉自民党の強権政治を恐れる!)

 今回の総選挙で自民党は296議席という圧勝に終わった。与党で2/3以上となり何でもできる情況になってしまった。小泉首相の郵政民営化だけの選挙戦略に国民が完全に酔わされてしまった。大切なのは今後の社会保障、年金、少子化対策、アジア外交など本当に日本の将来に大切なことが論じられないで「郵政を官から民へ」のキャッチフレーズだけの選択という恐ろしい総選挙となってしまった。又、大敗した民主党も郵政民営化の対案を野党第一党として出せなかったのが、最大の敗因であろう。完全に小泉首相のパーホーマンスによるムード選挙になってしまったのである。国民ももっと賢くならないと次にくるは大増税であるし、弱者切捨ての社会保障の改悪が待っているのだ。これから先4年間は弱者は暗黒の4年を過ごすことになるのである。勝組、敗組をつくる小泉政治を国民がこんなに支持することに私は大変驚いています。別に郵政を民営化しなくてもよいのである。郵政の350兆円をアメリカ系の銀行や証券会社がねらっているのがなぜわからないのだろうか。郵政民営化はアメリカ大統領との密約といううわさまで流れていた。これから小泉政治をしっかり国民として監視する必要がある。

平成17年08月09日

(小泉改革の挫折!)

ついに小泉政権の最大の課題となっていた郵政民営化法案が否決され、そのとばっちりで衆議院が解散されました。なにかこの解散は釈然とせず本来なら内閣総辞職を選ぶのが筋かもしれません。小泉首相の言うこともわかりますが、今までの政権運営があまりにトップダウン方式で、各議員の意見をぜんぜん聞いていなかったのでしょう。そこに大きな誤算があったのかも知れません、小泉政権の4年間をふり返ってみると、日本の社会に先述したとおり勝ち組と負け組をつくってしまった。小泉政権は社会保障を大切にしていない、医療、年金、介護の制度も充実できず、悪い方へ向っている。小泉政権のアメリカ一辺倒のやり方も大きな問題でいつのまにかアジアの日本ではなくなってしまっている、小泉外交ははなはだ心配である。景気は改善しているとは政府は言うがまだ、庶民感覚では、生活は良くなっていない。株価は4年前の小泉政権誕生の1万4千円にはとどいておらず、依然としてデフレも続いている。消費税も自分の政権では手をつけない、これは大きな問題だ。話はざっぱくになったが次回は少し整理して小泉政権を分析してみようと思う。ただ小泉首相に足りないのは社会的弱者への思いやりがないことである。

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